【その後の鎌倉殿の13人】鎌倉時代の人々は落雷にどのように対処したのか
寛喜2年(1230)6月14日は、鎌倉において風雨が激しく吹きつけていた日でした。鎌倉幕府の執権・北条泰時とその叔父・時房は、幕府の御所へやって来て、西廊に座します。そこに現れたのが、助教の中原師員・二階堂行村・三浦義村・二階堂行盛・町野康俊・清原季氏といった人々です。彼らは、今月9日に起きたある出来事についての対処を話し始めます。では、6月9日に何が起きたのか。その日は雷雨であり、雷が、御所の牛車車庫の東母屋の上に落ちたのです。それにより、柱や破風が破壊されました。そればかりか、雷は、後藤基綱の下男1人に直撃。下男は「悶絶」(気絶)したため、筵に包んで、北の土門から運び出されました。ところが残念ながら、下男はその日の夜に亡くなってしまうのです。「6月9日の出来事」というのは、雷による破壊と悲劇のことだったのでした。落雷があったことによって、御所を出た方が良いのか否か。はたまた、占いをさせて、その占いの結果(吉凶)により、御所を出るか否か。幕府の人々は評議しますが、なかなか結論は出ません。清原季氏は「先例が明らかではありません。こういう時は、占い結果(吉凶)次第ではないでしょうか。人の話によると、醍醐天皇の御代の延長8年(930)6月26日、清涼殿の西南西の柱に落雷があったと言います。大納言や右中弁が、雷火で亡くなりました。これは異常なことではありますが、それでも移動はしないで、常の寧殿におられたようです」との意見を述べ、占いをすることを主張。一方、二階堂行村は「延長年間の例は不吉でしょう。醍醐天皇は、9月29日に崩御されたからです。よって、御所を移動した方が良いかと」との意見を披瀝します。このように落雷にどのように対処するかが分かれてしまったのでした。