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紫式部が書いた「源氏物語」の八帖「花宴」の舞台は、さくらの記述から寛弘2年(1005年)か?

饒村曜気象予報士
源氏物語(提供:アフロ)

紫式部の生きていた時代

 平安時代中期に作られた「源氏物語」は、紫式部が当時の貴族社会を描いた長編小説で、令和6年(2024年)のNHK大河ドラマ「光る君へ(主人公は吉高由里子演じる紫式部)」でも取り上げられています。

 千年の時を超えるベストセラーの「源氏物語」が、文献に初めて出てくるのが寛弘5年(1008年)ですから、書かれたのは、それより少し前ということになります。

 この源氏物語は、天気変化の記述が正確で、これをもとに当時の気候を推定できると考えている人もいます。

 お天気キャスターで、気象予報士会の会長も務められた石井和子氏は、4年がかりで全巻を通読し、現代の気象知識で読み解き、平成14年(2002年)に「平安の気象予報士 紫式部―『源氏物語』に隠された天気の科学」(講談社)としてまとめています。

 石井和子氏によると、気候は奈良時代後半から暖かくなり、その後10世紀の平安時代はかなり温暖であったと考えられ、この温暖な気候を背景に、宮廷の女性達を中心とする平安文化が開花したとのことです(図1)。

図1 源氏物語を生んだ平安時代の気候(石井和子氏による)
図1 源氏物語を生んだ平安時代の気候(石井和子氏による)

 しかし、紫式部が源氏物語を書き上げたころから寒冷化に向かい始め、鎌倉幕府が成立して武士の世になっています。

 なお、石井和子氏が記述しているように、筆者も含めて、昔は鎌倉幕府の成立を、「源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年」と習いました。

 ただ、現在の教科書では、「源頼朝が守護・地頭を置く権利を獲得し、幕府の制度を整えた1185年」を採用していますが、いずれにしても、平安末期は寒冷化によって作物が不作の年が頻繁に出現するようになり、世の中が不安定になったということには変わりがありません。

源氏物語の著作年

 源氏物語が紫式部によって「いつごろ」「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについての資料がなく、多くの推定が行われています。

 その中で、東京農業大学の湯浅浩史教授は、「源氏物語」の八帖「花宴(はなのえん)」の記述は、寛弘2年(1005年)のことを書いたと推定しています。

 「花宴」には、主人公の光源氏が二十歳の時に、「二月の廿日あまり、南殿の桜の宴せさせ給ふ」とあります。

 紫宸殿の南にある左近の桜は、ソメイヨシノではなく山桜ですので、開花や満開は4月にはいってからが見ごろとなります。

 見ごろの頃に宴をしたと考えられますので、この年は、桜の見ごろが太陰暦で2月20日すぎということになります。

 これを、太陽暦に換算すると、次のようになります。

・長保5年2月20日 1003年3月24日

・寛弘元年2月20日 1004年3月19日

・寛弘2年2月20日 1005年4月7日

・寛弘3年2月20日 1006年3月28日

・寛弘4年2月20日 1007年3月17日

 したがって、寛弘2年(1005年)に花宴が開かれた時の話とすると、矛盾がないというのが湯浅教授の説です。

 また、湯浅教授は、七帖の「紅葉賀(もみじのが)」で、光源氏が「神無月の十日余り」に冠に紅葉を差して舞っていますが、これを菊の花に置き換えてみると、寛弘2年10月10日は、1005年11月21日となるが、前後の年は、菊が咲くにはやや遅いと指摘しています。

 小説では、書かれたできごとのモデルの年がはっきりしない、あるいはフィクションである可能性もありますが、それでも、ある程度の推定ができます。

 ましてや、日記となると、書かれた日付と場所が特定できます。

桜の開花日の平均は、その時代、その場所における気候を反映

 ある年の桜の開花日は、晩秋から早春の気温が高い場合は早く咲くという単純なものではありませんが、開花日の平均を取ると、その時代、その場所における気候を反映しています。

 大雑把に言えば、暖かければ早く咲き、寒ければ遅く咲くからです。

 日本人は昔から桜についての関心が高く、平安時代末期の歌人・西行のように「桜の花の下で死にたい」という心境に達する人も少なくありません。

 それだけに、桜に関しては、「○月○日に花見をした」などの記述を含めて、沢山の記述が残されています。昔の桜と今の桜では木の種類が違うなど、考慮すべき点があるのですが、これは、昔の気候を推定できる貴重な資料の集まりにはかわりません。

 例えば、大伴家持は、桜に関する歌を数多く詠んでいますが、歌を詠んだとされる場所と時刻を、現在の場所と西暦に換算すると次のようになります

1 山狭に 咲ける桜を ただひと目 君に見せてば 何をか思はむ
これは、越中の国守があった富山県高岡市付近では、747年4月12日に開花したことを推定できる歌です。
2 桜花 今さかりなり 難波の海 押照る宮に 聞しめすなべ
これは、大阪府の海岸部では755年4月3日に満開になったことを推定できる歌です。
3 龍田山 見つつ越え来し 桜花 散りか過ぎなむ 我が帰るとに
これは、奈良市近郊の龍田山では755年4月7日に満開であったことを推定できる歌です。

 当時の桜が今の桜と種類が違っていたり、思い出しながら歌ったために風景と歌った日が一致したりしていないなど不確定の要素があります。また、推定そのものが正しいかどうかという問題もあります。

 しかし、同時代の記録が多数残されていれば、統計処理で誤差を少なくでき、当時の気候を推定することができます。昔の気候を推定できる貴重な資料の集まりにはかわりません。

神戸にあった海洋気象台の古文書の解析

 神戸には、海運会社等の多大な寄付によって設立された海洋気象台がありました。現在の神戸地方気象台の前身です。

 この神戸海洋気象台では、戦前に多くの古文書を集め、「日本気象資料」を編纂しています。

 この編纂の中心人物であった田口龍雄氏は、集めた資料を基に、日本の歴史時代の気候について調査を行っていますが、その中に「近畿地方の桜花季節に就いて(昭和14年)」という、日本初の古文書から求めた気候の研究があります。

 全国の資料を集めたとはいえ、そのほとんどが都のあった京都、商業の中心だった大阪という近畿地方であったことから、近畿地方の桜に絞った調査です。それでも、この時は資料が120例しかなく、資料不足から経年的変化を求めることは困難ということで、一応、平均を出したという記述にとどまっています(図2)。

図2 田口龍雄の論文の一部
図2 田口龍雄の論文の一部

 田口龍雄氏は経年変化を求めることは困難としていますが、それでも桜の開花が早かった9世紀、10世紀、15世紀、17世紀は暖かく、遅かった12世紀、14世紀、16世紀が寒かったということが推定できます。

 田口龍雄氏の調査以降、多くの人が新しい資料を加え、古文書を用いた気候の研究が進んでいます。

 平安時代は気温がかなり高く、鎌倉時代から室町時代前期は気温が低く、室町時代後期は気温が高かったなどということが、地道な古文書の解析によって求められているのです。

 「源氏物語」の八帖「花宴」が書かれたとする寛弘2年(1005年)というと、陰陽師として有名な安倍晴明が亡くなった年でもあります。

 一つの時代が終わりを迎えるときの輝きが、「源氏物語」かもしれません。ただ、この輝きは、今も続いています。

図1の出典:石井和子(平成18年(2006年))、文学と気象学の狭間、天気、日本気象学会。

図2の出典:田口龍雄(昭和14年(1939年))、日本の歴史時代の気候に就いて(調査二 近畿地方の桜花季節に就いて)、海と空、海洋気象学会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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