不条理な暴力性はフランスの空気? 映画『またヴィンセントは襲われる』
目が合うと殺しに来る――それがヴィンセントが生きる羽目になった境遇だ。
襲うのはケガをさせるためではなく、殺すため。動機なき理由なき殺人で、さっきまでニコニコ笑っていた人の目つきが変わり、突然、殺人者のそれとなる。
殺意は子供であろうと強烈で、ひるむ素振りを見せず、全力でつかみかかってくる。武器になりそうなものがあれば使うし、なければ噛みつくし引っ掻く。子供が大人を素手で殺すのは難しいが、殺そうとせずにはいられない。
■目が合えば殺す、ただそれだけ
殺しに動機はない。
襲うのは知人の場合もあるし、赤の他人の場合もある。目が合うと因縁を付けるとか喧嘩になるというのがあるが、あれは暴力臭を漂わせた者同士の仁義のお話であって、ヴィンセントのような一般人が一方的に襲われることはない。
昔、高崎山自然動物園(大分県)に行った時に「猿の目を見るな」と注意されたが、ヴィンセントは猿山に迷い込んだ人間のようなものだろうか。
殺しに目的もない。
ただ殺すだけ。殺すこと自体が目的で、殺した後に起こることは目的ではない。だから、殺し終わったら死体を隠したり逃げ隠れしたりしないだろうし、多分、歓喜の雄叫びを上げたりもしないだろう。
■日本人なら「目を見ない」で解決なのに
「周りがみんな潜在的殺人者状態」といえば絶望的に響くが、意外に簡単な解決策があるのでは?
「目を見れば襲われるのなら、見なきゃいいじゃないか」とすぐ思ったのは、私が目を見なくても生きていける日本人だからだろう。目を見ることが社会の大前提となっているフランス人には多分、目を見ないで生きる、という発想がない。
フランスでも私の住むスペインでも「目を見ない=嘘をついている」なので、人と出くわす度に必ず目を見る。そして、見知らぬ通行人とでも数秒間、目が合えば必ず挨拶する。
スペイン人が礼儀正しいからではなく、「目が合う→挨拶する」という行為が、「私は怪しい者ではないし、あなたもそうですよね?」という確認行為であるからだ。
目を合わせることは、時には命よりも大事だ。
例えば、あなたがタクシーに乗って運転手さんに話しかけると、彼はバックミラー越しにあなたの目を凝視しているはず。危ないことこの上ない。
ヴィンセントにはあと濃いサングラスを掛ける、という手もあったはずだが、こちらも試されることはなかった。
■母国フランスの治安が作品のヒントに?
アイコンタクトで殺人が起きる世界をステファン・カスタン監督が描いた背景には、次のような暴力への悲観論がある。
「我われが殺し合いで死滅していないのは奇跡だと言える。人類の歴史で平和な時は戦争の時よりも常に短い」。この前提で、作品で描きたかったのは「私が興味があったのは我われが暴力にどう適応し、ヴィンセントがどう立ち向かっていき、各人がどう受け入れたのか、ということだ」(シッチェス・ファンタスティック映画祭の記者会見で)。
そんな暴力の絶えない世界に監督の母国も生きている。フランスの治安は今、欧州で最悪に近いのだ。
例えば殺人事件の発生率(10万人当たりの殺人事件数)1.56(23年)はスペインの2.5倍(同0.61。22年)で、イギリスの1.5倍(同1。20年)で、ドイツの倍(同0.82。22年)である。ちなみに日本は0.23(22年)だからフランスでは7倍近いペースで殺人事件が起こっていることになる。
本来、国が豊かになると犯罪は減る。
だからフランスでもスペインでもイギリスでもドイツでも日本でも90年代の殺人事件発生率は今よりもずっと高かった。だが、以降、他国の数字が右肩下がりなのに対し、フランスでは下げ止まりし逆にここ3年は連続で増加に転じているのだ。
ヴィンセントが生きている一触即発の空気は監督が母国で感じている空気で、『またヴィンセントは襲われる』は、今のフランスならではの作品だと思う。
※文中の殺人率の数字は、スペインの最有力経済紙『Expansión』とDatosmacro.comが共同で各国の公的データを収集・集計したもの
※写真提供はシッチェス映画祭