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企画成立屋・勝俣州和が「ファン0人」でもテレビに出続ける理由

ラリー遠田作家・お笑い評論家

いま最も注目されているバラエティ番組の1つである『水曜日のダウンタウン』で、初期に絶大な人気を博した企画があった。それは、おぎやはぎの矢作兼が提唱した「勝俣州和ファン0人説」である。確かに、活動歴が長く、知名度抜群のタレントでありながら、勝俣には特定のファンがついているイメージがない。まさに視聴者の盲点を突いた名企画だった。

その後、この番組では「勝俣州和の名前を漢字で書ける一般人0人説」「勝俣州和の自伝 網棚に置かれていても持って帰る人0人説」という続編にあたる企画も放送された。

『水曜日のダウンタウン』で勝俣に関する企画がこれほどの盛り上がりを見せたのは、多くの視聴者にとって彼が謎に包まれたキャラクターだからだ。

もともとはアイドルとして活動していたこと、ダウンタウン、とんねるず、ウッチャンナンチャン、和田アキ子など数々の大物タレントと親交が深いこと、1年通して短パンをはいてテレビに出ていることなど、知識として頭の片隅に引っかかっていることはあっても、そもそも勝俣とは何者なのか、というのはあまり知られていない。というよりも、ほとんどの人は彼のことをそこまで真剣に考えたことがないのではないか。本稿では、彼の著作に書かれた内容などに基づいて、その正体に迫ってみることにしよう。

小中高で学級委員長だった真面目人間

勝俣州和は1965年、富士の裾野にある静岡県御殿場市に生まれた。勝俣は7人兄弟の長男だった。祖父母も一緒に暮らしており、11人暮らしの大家族だった。父親は衣料品店を営んでいたが、自営業のため収入には波があり、家計が苦しい時期もあった。ただ、家族はみんな仲が良く、特に父は明るい性格だった。食卓では家族に話題を振って、ツッコミをいれて、笑いを起こしていた。

一方、当時の勝俣は、今の姿からは想像もつかないほど真面目一筋の堅い人間だった。小中高で学級委員長を務め、宿題もサボらずにこなした。7人兄弟で長男だった彼は、兄弟の中でも自分が模範にならなくてはいけないという意識が強かったのだ。

萩本欽一に抜擢されてテレビの世界へ

大学入学を機に上京した彼は、卒業後に「劇男一世風靡」の一員となった。これは、毎週日曜日に渋谷の路上でダンスや寸劇をしていたパフォーマンス集団である。哀川翔や柳葉敏郎も在籍していた。この時点で勝俣には芸能界に入りたいという野望はなかった。路上パフォーマンスはあくまでも趣味の一環という感覚だった。

ところが、この時期に彼の運命を変える出来事が起こった。萩本欽一が手がける『欽きらリン530!!』という番組のオーディションに参加したところ、多数の参加者の中から見事にレギュラーに選ばれたのだ。

きっかけはただの偶然だった。稽古場で萩本のために用意されていたおしゃぶり昆布を勝手につまみ食いした勝俣は、その後に現れた萩本にじっと見つめられた。つまみ食いがばれないように、動揺を押し殺して勝俣は目をそらさず、萩本と目を合わせ続けた。すると、萩本から「こいつの目には、俺から少しでも何かを吸収してやろうという情熱を感じる」と言われた。萩本のちょっとした勘違いから、勝俣の芸能人生がスタートしたのである。

あのアイドルにも憧れられていた

勝俣は番組内で結成されたアイドルユニット「CHA-CHA」の一員となった。CHA-CHAは「笑いも取れるアイドル」として爆発的な人気を獲得した。最も忙しい時期には、月曜から金曜までは昼と夕方にそれぞれ帯番組があり、週1回はゴールデンの番組に出演し、不定期で歌番組にも出ていた。そして土日にはコンサートが開かれていた。

CHA-CHAとして勝俣がアイドル番組で歌っていたとき、舞台袖で共演者の1人の少年が彼らのことを憧れの眼差しで見つめていた。勝俣が声をかけると、目をキラキラさせながら「すげえ格好良かったです!」と答えた。勝俣はその子の肩をポンと叩いて、「君もいつか僕みたいになれるさ」と言った。

その少年こそがあの中居正広である。当時、まだCDデビューもしていなかったSMAPの中居にとって、CHA-CHAは雲の上の存在だったのだ。「今では中居くんの背中すら見えなくなりました」と言うのが、勝俣がこの話をするときのお決まりのオチである。

リアクション芸が人気に

CHA-CHAが解散してからは、勝俣はバラエティタレントとして活動するようになった。初めの頃は「リアクション芸人」がやるような体を張った仕事が多かった。実は勝俣は高所恐怖症、閉所恐怖症、暗所恐怖症で、水もお化けも大の苦手だった。ビビリでヘタレの勝俣が過激なロケ企画に全力で挑み、ボロボロになって涙を流す姿が話題になった。

和田アキ子の生番組に出たとき、中継先でバンジージャンプに挑戦することになった勝俣は、どうしても跳べなくなってしまった。スタジオで「早く跳べ!」とせかす和田に対して、パニックに陥った勝俣は「うるせえ、アッコ! お前が跳んでみろ!」と暴言を吐いてしまった。

結局、勝俣はこの日、最後までバンジーを跳ぶことができなかった。緊張のあまり和田に暴言を吐いてしまった勝俣は、番組をクビになることを覚悟していた。和田に会って、これで最後だというつもりで挨拶をすると、彼女は笑ってこう言った。

「勝俣、オモロかったで! お前、最高やな。また頼むわ」

和田は怒ってはいなかった。むしろ、パニックに陥った勝俣のリアクションの面白さを高く買ってくれたのだ。これ以降、勝俣は次第に和田との距離を縮めていき、時には収録中に過激なことを言う和田をたしなめる立場にも回ることになった。勝俣を信頼している和田はそれを受け入れて、謝罪する素振りを見せることもあった。

「企画成立屋」として重宝される存在に

このようにして勝俣は、ウッチャンナンチャン、とんねるず、ダウンタウンといった大物芸人ともそれぞれ信頼関係を構築していった。例えば、勝俣は『ダウンタウンDX』で最も出演回数の多いゲストの1人である。彼がこの番組で重宝されるのは、ほかのゲストをフォローする「裏回し」の技術が優れている上に、何十回出ても必ず新しいエピソードを用意してくるからだ。

テレビのスタッフから見ると、勝俣はどんな企画でも現場を盛り上げて面白くしてくれる頼もしい存在だ。そんな彼には「企画成立屋」という異名がある。実際、テレビ業界で新しい番組を始めるときには、勝俣がキャスティングされることが多いのだという。

7人兄弟の長男で生来の真面目人間である勝俣は、一途に真面目に1つ1つの仕事に取り組むことで、共演者やスタッフからの揺るぎない信頼を勝ち取ってきたのである。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行う。主な著書に『松本人志とお笑いとテレビ』(中公新書ラクレ)、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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