入管法改正案の最大の問題は「事実上の移民政策であること」ではなく、政府がそれを認めないことである
11月2日、政府は出入国管理法の改正案を閣議決定し、条件によっては永住権の取得に道を開く外国人の単純労働者の受け入れを認めたが、今回の決定の最大の問題は事実上移民の受け入れに舵を切ったことではなく、「労働力の受け入れであり移民政策ではない」とタテマエで実態を覆い隠そうとする政府の姿勢そのものにある。
「移民政策ではない」
今回の入管法改正に関して安倍首相は「深刻な人手不足に対応するため、即戦力を期限付きで受け入れる」と重要性を強調しているが、野党から「そもそも人手不足がどの程度あるのか不明確」、「人数の上限が定められていない」といった批判が出ているだけでなく、自民党や保守派からも批判が噴出している。後者の批判は主に「事実上の移民政策ではないか」に集中している。
これに対して、首相は「いわゆる移民政策ではない」と力説しているが、今回の決定が外国人定住者を増やす方針に転じたものであることは間違いない。
今回の入管法改正の閣議決定では、これまで法的に制限されていた農業や建設業をはじめ14業種での受け入れが検討されている。
これまで「単純労働者としての外国人は受け入れない」という方針だったことからすれば、これだけでも大きな変化だが、さらに重要なことは「一時滞在ではない外国人労働者」を増やす点だ。
今回の決定では新たな在留資格として、「相当程度の知識または経験を要する技能」をもつ特定技能1号と、これを上回る「熟練した技能」をもつ特定技能2号の2段階を導入しており、滞在期間にも差が設けられている。1号の滞在期間は最長で通算5年、家族同伴を認められないのに対して、2号の滞在期間に上限はなく、家族同伴も認められる。
このうち、2号の場合、10年滞在すれば永住権の取得要件の一つを満たすことになる。
薄弱な論理
国際移住機関(IOM)によると、「移民(migration)」とは「本人の(1)法的地位、(2)移動が自発的か非自発的か、(3)移動の理由、(4)滞在期間に関わらず、本来の居住国を離れて、国境を超えた、あるいは一国内で移動している、あるいは移動した、あらゆる人」を指す。この基準に照らせば、今回の入管法改正で想定される外国人労働者は立派な「移民」である。
それにもかかわらず、安倍首相は「移民政策ではない」と抗弁する。なぜなら、日本政府はIOMの定義を受け入れていないからである。なぜ受け入れないのかの説明はない。
その代わり、自民党政務調査会の労働力確保に関する特命委員会は2016年、「『移民』とは入国の時点でいわゆる永住権を持つ者であり、就労目的の在留資格による受け入れは『移民』には当たらない」と定義しているが、入国段階で永住権を取得している者など、欧米諸国でもほとんどいない。ハードルを限りなく引き上げた定義は、「日本人が作らなければ日本食でない(フレンチでもイタリアンでも構わない)」というのと同じで、願望であって現実を反映したものではない。
さすがにはばかったのか、国会答弁で安倍首相はこの定義を用いていない。その代わり、移民の定義に関して「一概には答えられない」としたうえで、「国民の人口に比して、一定程度の規模の外国人やその家族を期限を設けることなく受け入れ、国家を維持していこうとする政策は考えていない」と答弁している。
しかし、これとて問題は多い。「一概に答えられない」と述べ、「移民」とは何者かを示さずに「移民政策はとらない」というのは、「自分は独裁者ではない。独裁者がどんなものかハッキリ知らないけど」といっているのと、空虚という意味では同じで、学生のレポートなら落第ものである(少なくとも筆者の授業なら)。そのうえ「国民の人口に比して、一定程度の規模」とはどの程度なのかも定かでない。
これらは要するに、少子高齢化や人手不足などで外国人労働者の必要性に直面しながらも、「日本らしさが損なわれる」といった理由からそもそも外国人の受け入れに慎重な保守派に忖度し、あくまで「移民政策でない」ことにしようとするなかでひねり出された主張といえる。
外国人ぬきに成り立たない日本
念のために補足すれば、今回の入管法改正の主旨そのものは、労働力の不足に直面する産業界から歓迎の声があがっているように、日本社会のニーズにマッチしたものと評価してよい。
単純労働を担う外国人ぬきに日本社会がもはや成り立たないと筆者が実感したのは、20年以上前の学生時代、「ものは試し」で肉体労働のアルバイトをした時のことだった。作業内容は吉祥寺のあるデパートで深夜にトイレの改装工事をすることで、工事を受注した大手建設会社の他、子会社、孫会社の人間も多く働いていた。
このうち、筆者が登録していた横浜の孫会社から派遣された人間をみると、当時の筆者のような物好きな大学生の他は中国や東南アジア出身の外国人しかおらず、しかも彼らは監督から「山本」、「田中」といった日本名で呼ばれていた。不法就労だったのだろう。
不法就労は犯罪だが、その彼らがいなければ、トイレの改装工事さえできない現実がそこにはあった。あれから20数年たって、この状況はさらに加速しているとみてよい。
つまり、たとえ日本政府が現実を直視せず、「移民政策を考えていない」としても、既に日本という国家を維持するうえで外国人は欠かせないのだ。実際、(就学ビザで来日しながら学校にほとんど通わず働く者さえいる)留学生アルバイトや(「技能を学ばせる」という名目のもとに労働基準法の対象外に置かれてきた)技能実習生を含む外国人労働者に単純労働の多くを依存している現状に鑑みれば、今回の入管法改正は法的にグレーだったものを正式に認めるもので、その意味では矛盾が正されたともいえる。
「移民政策ではない」ことの問題
しかし、今回の入管法改正の最大の問題は、日本政府がこれを「移民政策ではない」と抗弁するところにある。タテマエで実態を覆い隠し、国民に移民に関する理解や覚悟を持たせないことが、後世に禍根を残しかねないからである。
移民受け入れに関しては、一般的に以下の各点がよく問題視されやすい。
- 治安の悪化
- 雇用の奪い合い
- 財政負担
- 文化摩擦
ただし、これらのなかには、誤解や誇張もある。
治安に関して述べると、欧米諸国での多くの統計的調査は「移民の増加で治安が悪化した」という説に疑問を呈している。
例えば、イギリス警察によると、2017年度に「反社会的行為を行った」白人が3万977人だったのに対して、ハーフを含む移民系のそれは3647人で、全体の約10パーセントだった。これに対して、OECDの統計によると、イギリスの定住外国人の人口(2014)は515万4000人で、全人口(6365万人)の8パーセントだった。つまり、移民の犯罪率はやや高いものの、白人と大差ないレベルにとどまっている。
低所得層の移民は確かに固まって暮らすことが多く、結果的に犯罪多発地域(つまり地価の安い土地)に移民が集中しやすくなる。ただし、それは所得水準や偏見などに促されるもので、「外国人が増えたら犯罪が起こりやすくなる」というのは乱暴な言い方である。
また、「雇用の奪い合い」もよくいわれるが、そもそも先進国の人間が単純労働をやりたがらないなか、外国人がその穴埋めのために招かれるのであり、多分に誇張が含まれている。
さらに、由緒ある寺社仏閣が立ち並ぶ京都や鎌倉で場違いなカフェやレストランを開業している経営者も、ハロウィンに渋谷で暴れまわった若者も、その大半が日本人で、多くの日本人自身が「日本らしさ」を放置していることに鑑みれば、「日本らしさを損なうから外国人の受け入れに反対」という主張は説得力を欠く。
もちろん、実質的に移民を受け入れるとなれば、例えば母語が日本語でない子どもの就学の問題など、相応のコスト負担が必要になる。
したがって、日本政府に求められるべきは、むしろ移民にまつわる誤解や誇張を打ち消し、受け入れのコストを差し引いても利益が大きい、あるいは必要である、という覚悟を国民に広く求めることであろう。
負のレガシーの恐れ
この理解や覚悟を欠いたまま移民を受け入れたことが、現在のヨーロッパの移民問題の根底にある。
ヨーロッパ諸国は1940年代後半、戦後復興を行う人材の不足を海外から調達したが、彼らは「移民」ではなく「一時的な労働力」とみなされやすかった。当時、西ドイツでトルコ系が「ガストアルバイター(英語でいうゲストワーカー)」と呼ばれたことは、その象徴である。
ところが、多くの移民は「一時滞在」の前提を共有しておらず、戦後復興が終了した後も増え続けたため、認識のギャップが拡大した。「想定と違った」ことはその後、受け入れ国市民の間に反移民感情が生まれやすい土壌になった。
日本政府が「移民政策ではない」と抗弁して国民に「移民は来ない」と思わせようとしているなら、将来的に永住者が増えた際に「想定と違った」という不満を生まれやすくする。しかも、その頃には現在政権を担っている政治家や官僚は引退しており、憎悪や不満の矛先は、その時代の移民たちに向けられる。その場合、今回の入管法改正は、日本にとって負のレガシーになり得る。
言い換えるなら、この問題は安倍首相のお気に入りの慣用句「結果責任」や「責任政党」のあり方を問うているといえるだろう。
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