「どうする家康」で「イカサマ師」と言われた本多正信の子孫と宇都宮釣天井事件
「どうする家康」で、「武」の本多忠勝とともに「智」の重臣として重きをなした本多正信。正信は本多家嫡流の忠勝とは違って、「西城本多」といわれる庶流の出である。
かつて三河一向一揆では一揆方に属して家康と戦いながら、伊賀越えを機に家康のもとに復帰し、以後は「イカサマ師」と言われながらも参謀としての役割をつとめた。
一方、その息子正純は「どうする家康」では父とは逆に真面目な武士として描かれていた。ドラマの終わった後、この子孫は数奇な運命をたどることになる。
江戸時代の正信・正純父子
家康が天下をとると、初期から仕える重臣達はそれぞれ主要な地を治める大名として独立した。しかし、正信は相模玉縄で1万石(のち加増で2万2000石に加増)に甘んじた。これは、家康の謀臣という立場から、他の家臣の妬みを受けないように加増を拒否したともいわれている。そして、家康が亡くなった1か月半後に正信も死去した。
子正純はそうした父の生き方に逆らい、2代将軍秀忠のもとで老中に進むと、先代からの宿老であることを理由に自ら宇都宮15万5000石という大身となった。こうしたことから次第に秀忠との距離が広がり、秀忠側近の土井利勝らと対立するようになる。
正純の失脚
そして元和8年(1622)、改易となった出羽山形の最上氏のもとに上使として赴いて山形城を接収した直後に、将軍秀忠から謀反の疑いをかけられた。世にいう「宇都宮城釣天井事件」である。
これは、正純が居城の宇都宮城の天井に細工して、日光を訪れていた秀忠を謀殺しようとしたというもので、実際秀忠は帰り道を変更して宇都宮城に寄らずに江戸城に戻っている。釣天井そのものは事実無根だが、その際に詰問された宇都宮城石垣の無断修理などは回答できず失脚した。
正純は出羽横手(現在の秋田県横手市)に流され、寛永14年(1637)に73歳で横手で死去した。長男正勝も横手に流され、父に先立って死去している。
横手で生まれた正勝の二男正之が後に許されて家を再興したものの、家禄は3000石で以後大名に復帰することはなかった。
その後の本多一族
正信の一族にも大名として続いた家がある。
正信の弟正重もかつて三河一向一揆に味方して追放されていたが、のちに復帰して大坂の陣後に下総国で1万石を賜った。正重没後は分知して旗本となるも、4代目の正永のときに1万石に加増されて諸侯に復帰。さらに老中に進んで4万石となり、正矩のとき駿河田中藩を立藩した。以後幕末まで続いている。
実は石高だけからいうと、正信の二男政重の子孫の方が大きかった。政重は前田利長に仕えて、江戸時代は加賀藩筆頭家老となり、陪臣ながら実に5万石を知行した。
ただし、いくら石高が高くとも陪臣であることにはかわりはなく、明治維新後田中藩主の本多家が子爵となったのに対し、加賀藩家老の本多家は1ランク低い男爵であった。