江戸幕府時代の大名屋敷は、明治政府設立後にどのように変化していったのか??
明治新政府の発足によって明治天皇が江戸へ移り東京と名を変えて生まれ変わります。しかし、新政府設立当初の東京は参勤交代で詰めていた大名たちが地元に帰り、人口が減り続け極度の経済不況に陥ってました。残された大名屋敷の大半が政府に取り上げられ、その多くが放置され荒れ果てていました。
徳川政権の中心地で活気のあった江戸は、明治になり荒れ地の多い状態だった事はあまり知られていません。そこで、明治政府発足直後の東京の状況を踏まえながら、荒れ地になった大名屋敷の行方を追ってみます。
江戸の大名屋敷跡はどうなったのか?
明治政府は大名屋敷の大半を没収しました。
江戸の約7割が大名屋敷で占められ、そのうち約半分を新政府が取得。まずは、政府の要職に就いた者たちが、良い土地から順番に私物化して暮らし始めました。大隈重信の築地にあった屋敷は『築地の梁山泊』と呼ばれます。
それでもたくさんの土地が余り、軍用地や政府機関施設の利用もしました。また、政府御用達の商人たちに払下げなども行います。これらの商人たちは、後の財閥と呼ばれるまでに財をなしていきます。
土地は『桑茶政策』で畑や牧場に…
政府はひたすら土地のバーゲンセールをしましたが、簡単に貰い手も決まるわけでもなく依然として多くの屋敷・土地が残りました。そこには草が生い茂り、乞食が住みついたり、行き倒れの人もいるような場所もあったそうです。
そこで政府は広大な荒れ地を農地にしてしまおうと『桑茶政策』を計画します。この政策は、下級武士や元奉公人などの失業対策と土地の有効活用を主としたものでした。
また、当時の日本は絹とお茶を主要貿易品として輸出しています。
政府は荒れ地に蚕のえさとなる桑かお茶を生産する農家を募集。しかし、思うように人が集まらず、唯一手を挙げた人も思うように収穫が上げられず、空き地がさらに荒れてしまう事態となりました。
一部では牛乳の消費拡大を見越して牧場にした土地もありましたが、桑茶政策は失敗。荒廃した土地は全然減らず、わずか2年で桑茶政策は廃止されてしまいます。
桑茶政策は失敗しましたが、これまで武家以外居住することが許されなかった地域を経済活動の場へと変化させたのは唯一の成果で、これが東京の発展に一役買っています。
有力大名屋敷は政府機関や公園に変化
大名は上・中・下の3つの屋敷を江戸に持っており、皇居(江戸城)に近い上屋敷は明治政府に接収され、官庁や軍の施設等に変わっています。現在の官庁が置かれている霞が関の辺りには、黒田、浅野、上杉、真田と言った有力外様大名の広大な屋敷が建ち並び、ここに官庁を集中的に建設しました。
- 尾張徳川家市谷上屋敷→陸軍士官学校→防衛省
- 紀州徳川家赤坂上屋敷→皇室赤坂御用地→東宮御所・迎賓館等
- 水戸徳川家小石川上屋敷→陸軍用地→小石川後楽園
- 加賀藩前田家上屋敷→文部省用地→東大本郷キャンパス
- 彦根藩井伊家上屋敷→陸軍用地→憲政記念館ほか
- 福岡藩黒田家霞ヶ関上屋敷→外務省→外務省
- 広島藩浅野家霞ヶ関上屋敷→陸軍用地→合同庁舎・警察庁ほか
- 米沢藩上杉家桜田上屋敷→法務省→法務省
また、明治後期になると華族達が財政難のため売却した屋敷も多くあり、山県有朋は旧久留里藩下屋敷を購入し、椿山荘を建築して住んでいました。現在の慶應義塾大学の三田キャンパスは、旧島原藩の屋敷を福沢諭吉が格安で購入した場所です。
明治4年に廃藩置県が行われると、各藩主達に東京へ住むことが義務化になったことで、大名屋敷が有効利用されるようになります。その後は、政権も安定し東京の人口が増加に転じて、経済が回るようになり江戸時代のような活気のある町へと戻り、日本の中心として発展し続けるのでした。