気候変動科学論争の現在地
日本のシンクタンクで告発が
四月に気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の三つの作業部会の報告書が出そろい、1・5度(産業革命前からの世界平均気温上昇)で地球温暖化を止めることの緊急性と、そのために必要な変革の大きさが改めて明らかになりました。一方でウクライナ情勢が緊迫しており、世界の問題対応能力はかなりそちらに持っていかれざるをえません。そんなたいへんな状況ではあるのですが、今回はどうしても気になっていることがあったのでそれを先に書いておきます。
それは、いわゆる気候変動の懐疑論論争についてです。僕は、二月末に英紙ガーディアン豪州版の記者から、IPCC執筆者の同僚を通じてコンタクトを受けました。記者いわく、日本の大手企業の名を冠したシンクタンクに所属する専門家が、あからさまな気候変動懐疑論を発信しており、これを問題視する告発を受けて調査をしているということでした。当該専門家は僕もよく知っている人物ですが、本稿はその人物を晒す意図で書いているものではないので、仮にT氏とします。
本件は、そのシンクタンクで保健分野のフェローを務める豪州の専門家が、自分の関わるシンクタンクから気候変動懐疑論が発信されていることに気付いて驚き、声を上げたということのようです。ガーディアンの記事によれば、T氏は気候危機をフェイクニュースとよび、グレタ・トゥーンベリを共産主義者とよび、気候変動の科学を疑うことを促す子ども向けの書籍を出版しているということです。
現時点で、この告発に対する反響は日本の内外ともそれほど大きくありません。当該シンクタンクのウェブサイトには、問題になった子ども向け書籍の宣伝こそ表に出ていませんが、T氏の発信は通常営業のようです。良くも悪くも、告発はおおむね「スルー」されている感があります。
懐疑論の現在
さて、この状況をどのように受け止めたらよいでしょうか。第一に、前提となる認識として、世界において気候変動の科学や政策に対する懐疑論や否定論は珍しいものではありません。トランプ前大統領を例に挙げるまでもなく、米国保守派に気候変動懐疑論が根強いことは周知の事実です。懐疑論・否定論の根拠を提供しているのは、基本的には化石燃料業界等のプロパガンダ活動であり、このことはナオミ・オレスケスらの『世界を騙しつづける科学者たち』をはじめ、学術的にもジャーナリズム的にも詳しく調べられ、明らかになっています。
第二に、人々の価値観は多様ですので、陰謀論が好きな人も逆張りが好きな人も世の中には一定数います。CO2排出実質ゼロを目指す「脱炭素」などの言説に様々な理由で反感や不安を感じる人もそれなりの割合でいるでしょう。脱炭素化の流れによって自分の職業が批判される立場になる、温室効果ガス多排出産業に関わる人の中には当然多いでしょうし、気候変動対策を「リベラルのアジェンダ」とみなして敵視する「保守」の勢力も、ベタとはいえ健在ではないでしょうか。つまり、懐疑論・否定論には一定の社会的なニーズがあります。ですので、それに応えようとする人も誰かしら出てくるのだと思います。もしもT氏がその役を担わなかったとしても、別の誰かがそのポジションを埋めたことでしょう。
第三に、懐疑論・否定論に対して主流の科学が反論すると、そこに論争があるようにみえてしまうという問題があります。つまり、科学的には信頼性のレベルが雲泥の差であるにもかかわらず、対等な二つの学説がぶつかり合っていると誤解されてしまうのです。これは懐疑論側の思うつぼであり、彼らは論争に勝つ必要はなく、そこに論争がある(決着がついていない科学的な論点がある)と、見ている人たちに思わせることができれば目的を十分に果たせます。これがわかっていると、反論することを期待される立場にいても、素直に反論することがためらわれます。
第四に、脱炭素化は日本を含む多くの国で政治経済において主流化してしまったため、多少の雑音は許容範囲という見方ができます。二〇二〇年一〇月の菅総理(当時)の宣言以降は、日本でも脱炭素化が政治や行政の常識になりました。ビジネスにおいてはさらに顕著で、ESG投資家や国際企業のサプライチェーンなどから、日本でも多くの企業が脱炭素化に向かうようプレッシャーをかけられています。どれだけの割合の経営者が、脱炭素化を目指す根拠を理解して納得しているかは知りませんが、もはや「気候危機はフェイクニュース」みたいな言説が多少盛り上がったところで、この脱炭素化の流れが変わるような気はしません。
第五に、一方で、気候変動問題に強い関心を持つ市民の割合は日本では多くなさそうです。SNSでは懐疑論・否定論の言説が盛り上がっているのをよく見ますが、国民全体から見れば、ごく小さいクラスターでしょう。気候変動問題の議論自体があまり盛り上がっていないので、その一部である懐疑論・否定論もたいした社会的関心を集められてはいないのです。二〇〇八年前後に武田邦彦さんが暴れていたころなどは、環境問題の論争というのがけっこう世間のメジャーな話題でしたが、今は幸か不幸か、その盛り上がりには遠くおよびません。
以上のような状況認識に基づいて、最近、僕自身も懐疑論・否定論はスルーになりがちです。戦略としてはそれでよいように思うのですが、それで万事オーケーかというとそうではなく、もやもやする部分は残ります。
懐疑論とどう付き合うか?
一つには、他の多くの論争的な話題と同様に、気候変動懐疑論・否定論クラスターはフィルターバブルを形成し、もはやその外側と対話を成り立たせるのが相当難しい状況になっているのではないでしょうか。彼らの中には基本的に「リベラルの言うとおりに脱炭素なんてやったら、日本経済がボロボロになる」という信念を持っている人が多いのだと思います。そのため、「日本経済を守るために」なりふり構わずに気候変動を軽視したり対策を敵視したりしているようにみえます。
ちなみに僕自身は、「リベラルの言うとおりに脱炭素をやればすべてうまくいく」とは思っていません。価値観の異なる人たちの懸念や提案に耳を傾けて、必要に応じて軌道を修正することは、脱炭素をうまくやり遂げるために必要なことかもしれません。しかしながら、気候変動対策を推す側から見ると、「気候変動の科学に変ないちゃもんをつけてるような人の提案なんて聞きたくない」と当然思うでしょう。すると、気候変動懐疑論・否定論に手を染めた人が、主流の政策論に対して仮に鋭く本質的なツッコミを入れていたとしても、それが有意義な議論に結び付くことは難しくなってしまいます。
もう一つには、懐疑論・否定論のビジネスへのインパクトは小さいだろうと先ほど書いたものの、じわじわと影響している部分はあるのだろうなと想像できます。やはり、脱炭素への移行がそうそう簡単ではない産業分野に従事する人たちの中には、「本当は気候変動とか脱炭素なんて出鱈目だったらいいのにな」と思いながら「やらされている」人も少なくないかもしれません。中小企業などでは、金融やサプライチェーンからの脱炭素化プレッシャーが及んでおらず、「気候変動って騒いでる人たちいるみたいだけど本当なの?」くらいのセンスの人もまだけっこうおられるかもしれません。気候変動懐疑論・否定論の言説をネットで目にすることは、そのような人たちに、脱炭素を「やってるふりをしておけばいい理由」や「まだやらなくていい理由」を与えてしまうでしょう。
僕の認識では、脱炭素化は世界の競争のルールになってしまったので、前向きに取り組んでいかなければどんどん置いていかれてしまうのだと思います。その中で、懐疑論・否定論の言説は、変わらなければと焦る日本の産業界に対して、「まだこのままでいいんだよ」という甘い言葉をささやき、「後ろ向きにしか取り組まない人」や「まだ取り組まない人」を温存し、結果的に、彼らが守ろうとしていたはずである「日本経済」の足を思いっきり引っ張っているようにもみえます。
最後に、気候変動懐疑論・否定論が、なぜ、誰によって、大手企業の名を冠するシンクタンクから発信されることが許容(もしくは奨励?)されてきたのかに思いをめぐらすと、もやもやはさらに深まります。日本の産業界の一部には、気候変動対策の足を引っ張ることに対して合理性を見出す、あるいは非合理ではあるのだが感情的にそのように動いてしまう、何らかの誘因を宿した闇が横たわっていることを垣間見ている気がしてしまいます。その正体を僕は知りません。
社会の価値観は多様であり、未来は不確実です。世の中から気候変動懐疑論・否定論を消し去ることはできないでしょうし、彼らの政策論にはもしかしたら一理ある部分もあるかもしれません。しかし、少なくとも、気候変動を軽視したり脱炭素化に抗ったりすることで、日本経済にいいことがあるとは僕には思えません。あとは、日本の産業界や市民社会が、十分に賢明であることを祈るばかりです。
(初出:岩波『世界』2022年6月号「気候再生のために」)
※隔月で「世界」に連載を始めました。今後も2か月遅れでこちらに転載します。