「光る君へ」に多数登場する藤原氏とは、そもそもどういう一族か
大河ドラマ「光る君へ」のクレジットをみていると、とにかく「藤原」さんが多く、とても覚えきれない。これは当時の朝廷の貴族が藤原氏の一族で占められていたためやむを得ないのだが、そもそもこの藤原氏というのはどういう一族なのだろうか。
名字と姓
現代では「名字」と「姓」は同じものとして扱われているが、江戸時代以前は「名字」と「姓」は別のものだった。簡単に言うと、「名字」は家と家を区別するために各自が勝手に名乗ったもので、極めて数が多く変更も自由。
一方、「姓」は自分のルーツを示すもので種類も少なく、原則変更することもできない。
「光る君へ」の時代はまだ「名字」が広がる前で、このドラマに登場する貴族たちはみな「姓」を名乗っている。
「姓」も本来はある程度多かったのだが、平安時代には4大姓といわれる「源平藤橘」と、大江、菅原、清原、安倍、小野といったメジャーな「姓」を名乗る一族のみが貴族階級として勝ち残り、それ以外のマイナーな「姓」の氏族たちは中下級の官僚となった。そして、貴族階級の中でも最大の勢力を誇っていたのが藤原氏である。
藤原氏のルーツ
さて、「源平藤橘」という4大姓のうち、源氏、平氏、橘氏はいずれも天皇家の分家だが、藤原氏だけは違う。藤原氏の祖は乙巳の変(大化の改新)で活躍した中臣鎌足である。
天智天皇8年(669)、中臣鎌足が危篤となった際に、天智天皇は鎌足の功労に酬いるため大織冠の位を授けて内大臣とし、藤原姓を賜った。この「藤原」は鎌足の旧居に因んでいる。鎌足の出自には諸説あるが、常陸国にいた中臣氏の庶流の出とみられている。中臣氏は祭祀を司る一族である。
鎌足没後、「藤原」という姓は嫡男不比等が継ぎ、以後不比等の子孫だけが「藤原」を称して政治を担当し、中臣氏から独立して新しく藤原氏が誕生した。
北家が藤原氏の頂点へ
不比等の4人の子武智麻呂、房前、宇合、麻呂は揃って公卿となり、それぞれ南家、北家、式家、京家を興して藤原四家を築いた。
以後しばらく4家の権力闘争が続き、当初は南家が力を得たが、奈良時代に式家の種継や薬子が台頭、平安時代初期になって北家が氏長者(うじのちょうじゃ)となった。
すると以後は北家の子孫が藤原氏を支配し、朝廷内で藤原氏といえばほぼ北家を指すようになる。「光る君へ」に登場している藤原氏の人物もほぼ北家の子孫である。
そして、北家の子孫たちが朝廷の要職を独占し、貴族階級は藤原氏だらけになってしまった。