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【その後の鎌倉殿の13人】北条泰時の嫡男・時氏が京都から鎌倉に急いで戻ってきた訳

濱田浩一郎歴史家・作家

嘉禄3年(1227)7月4日、京都の六波羅から、北条時氏が鎌倉に駆け付けてきました。時氏は、鎌倉幕府執権・北条泰時の嫡男。母は、有力御家人・三浦義村の娘でした。承久の乱(1221年)において、時氏は父とともに都へ攻め上り、元仁元年(1224)からは、六波羅探題(北方)に任じられ、京都にいたのです。その時氏が、六波羅から鎌倉に戻ってきたのは、丈六堂(鎌倉・大慈寺の敷地内に、北条泰時の御願により建てられた御堂。北条政子の3回忌のために建てられた)の「供養結縁」の儀式に参列するためでした。しかし、彼が急いで戻ってきたのは、異母弟・北条時実の死を聞いたからです。時実は、家人の高橋二郎により(確かな要因は不明ですが)、殺害されていました(1227年6月18日)。本来ならば、丈六堂の供養はその翌日(6月19日)でしたが、殺害事件のため、延期となっていたのです。丈六堂の供養は7月11日に行われましたが、同時に北条政子の3回忌の法要も営まれました。丈六堂の供養の日程については、様々な日柄が検討されていましたが、結局、政子の3回忌の日に行われることとなったのです。政子の3回忌のために建てられた御堂ですので、それが一番良かったのだと思われます。供養の導師は、荘厳房律師(行勇)。北条時房(泰時の叔父。政子の弟)、泰時・時氏親子など大勢の人々が参列しました。そこには、竹御所(幕府2代将軍・源頼家の娘)の姿もあったといいます。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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