イラクが直面する「モスル後」のシナリオとしての「スンニスタン」
過激派組織「イスラーム国」(IS)の拠点であるモスル攻略のために、イラク軍とこれを支援する米軍などの有志連合が本格的な攻撃を開始して約2ヵ月。装備などの圧倒的な差を前に、ISは自爆攻撃などで抵抗していますが、モスル陥落は時間の問題とみられています。
モスルが陥落すれば、イラク国内のISの拠点はほとんど解放されたことになります。2014年6月にISがイラクからシリアにかけての領域で「建国」を宣言してから、約2年半。IS対策は、大きな節目を迎えています。
しかし、モスル攻略が大詰めを迎えるなかで、イラクは「モスル後」の対応に眼を向けざるを得ない時期にきています。そのなかで、欧米諸国なかでも米英の外交サークルでは「スンニスタン」構想が少しずつ浸透してきています。これは一言でいえば、スンニ派住民の多いエリアをイラクから切り離し、宗派・民族間の対立を和らげることを目指すものです。
ただし、「スンニスタン」構想の実現には課題も多く、仮にそれが実現したとしても、期待通りの効果をあげるかには疑問もあります。
イラクの宗派・民族対立の過熱
まず、「スンニスタン」構想の背景にある、イラクにおける宗派・民族間の亀裂についてみていきます。イラクにおけるISの台頭は、この国の宗派・民族対立の結果であると同時に、これを加熱させるものでもありました。
サダム・フセイン時代、イラクでは人口で少数派(約20パーセント)のスンニ派が政権の中枢を占めていました。これはフセイン自身がスンニ派であったことによります。「独裁者」が自らに近い少数派宗派で政権を固め、多数派を支配する構図は、シーア派の一派アラウィー派が政府要職を独占する、シリアのアサド政権にも共通します。
しかし、フセイン政権は米軍などの攻撃によって2003年に崩壊。その後、2005年にはイラクで初めて、民主的な選挙に基づく内閣が発足しました。新憲法では比例代表制や連邦制などが導入されましたが、これらはいずれも単純な多数決や中央集権を避け、少数派の権利を保障する制度です。宗派・民族対立の深刻化を回避するよう設計された憲法のもと、イラクは新たなスタートを切ったのです。
ところが、期待に反して、新生イラクでは宗派・民族対立が徐々に表面化。初の民主的なリーダーであるマーリキー首相は当初、イラク人口の約6割を占め、自身の出身母体でもあるシーア派だけでなく、スンニ派やクルド人とのバランスに配慮した政権運営を目指すことを掲げていました。しかし、政権基盤を固めることを優先させたマーリキー首相のもと、イラク政府要職は徐々にシーア派によって独占されるようになったのです。さらに、クルド人やスンニ派に認められていた自治権も形骸化。クルド人居住区で産出する石油の利益が中央政府に吸い上げられ続けたことは、その象徴でした。
民主主義の原理は、突き詰めていえば、「多数派の意思を全体の意思とする」ものです。その「多数派」が政治的イデオロギーなどによるものでなく、宗派・民族といった文化的な属性によるものであった場合、民主主義はひたすら文化的少数者を抑圧する原理にもなりかねません。実際、シーア派支配が確立された後のイラクでは、体制が入れ替わってもバグダッドによる支配が何ら変更されなかったことにクルド人が、フセイン政権時代と180度立場が入れ替わったことにスンニ派が、それぞれ不満を募らせることになったのです。
この状況に、イラク政府の後ろ盾であった米国は再三、是正を求め、クリントン国務長官(当時)は2007年8月に「宗派・民族間の融和」を勧めました。しかし、これに対してマーリキー首相は反発を強め、イラク・ナショナリズムを叫ぶに至りました。文化的な亀裂が数多く走る国において、「ナショナリズム」は「国民」として結束を強めるスローガンというより、実質的に多数派の宗派・民族の利益を代弁するものになることが珍しくありませんが、イラクの場合も同様だったといえます。
この状況下、先述のようにISが2014年に「建国」を宣言。それまでの経緯に鑑みれば、シーア派中心の政府に批判的なスンニ派住民のなかから、やはりスンニ派であるISへの自発的な参加者が生まれたことは、不思議ではありません。
「スンニスタン」構想の浮上
イラクの宗派・民族対立を解消することを目指す「スンニスタン」構想は、IS台頭の以前に、既に浮上していました。2013年1月、米国の外交問題評議会の機関誌『フォーリン・アフェアーズ』は、「イラクのスンニスタン?」と題する論考を掲載。宗派対立が激化するイラクを安定させるためには、もはやシーア派とスンニ派を分離させる必要があり、そのためには「スンニスタン」としてスンニ派居住地域を独立させることを検討するべきと提案されました。
外交問題評議会は国務長官経験者を含む米国の政治家・外交官だけでなく著名な国際政治学者らをメンバーとする団体で、その機関誌『フォーリン・アフェアーズ』は米国の対外政策に少なからず影響を及ぼすと同時に、実際の米国外交のコンセプトを海外に発信するプラットフォームとしての役割も果たしています。その『フォーリン・アフェアーズ』で、2013年の段階で既に「スンニスタン」が取り上げられていたことは、IS台頭以前から米国の外交サークルで「イラク分割」が取りざたされていたことを示します。
そして、この議論はIS台頭後、特にイラクでの戦闘が大詰めに近づくにつれ、さらに活発になりました。IS「建国宣言」の翌月、2014年7月には『ニューヨークタイムズ』が、2015年12月には『ワシントン・ポスト』が、そして今年10月16日には英国の『ロイター通信』が、それぞれ「スンニスタン」構想についての記事を掲載しています。これらはいずれも自国政府と密接な関係にある報道機関であり、一連の記事掲載は「スンニスタン」構想が米英の外交サークルで広がる様相を示しています(日本の英字紙『ジャパン・タイムズ』も10月16日にイラク問題を解決する手段として「スンニスタン」構想を紹介している)。
これに関して、彼らを代表する組織がないため、イラクのスンニ派住民からの公式の反応は見出せません。しかし、イラクでやはりISと対峙し、自らの勢力圏を確保してきたクルド人勢力「ペシュメルガ」はウェブサイト上で「IS打倒後のイラクにおいて、連邦制ではもはや不十分で、国家連合、あるいは完全な独立国として、クルド人、スンニ派、シーア派が分かれる以外、安定はない」と主張し、クルディスタン、スンニスタン、シーアスタンの設立を求めています。
「国をもたない世界最大の少数民族」とも呼ばれるクルド人は、かねてから独立志向が強く、欧米諸国ではこれを支持する声が小さくありません。クルド人勢力からすれば、米英で浮上した「スンニスタン」構想は、彼らの悲願である「クルディスタン」建国への追い風と映るでしょう。IS打倒がなれば、その「貢献」が評価されて然るべきと彼らが考えたとしても、不思議ではありません。
「スンニスタン」がテロ対策にもつ効果
宗派・民族の違いに基づき、これだけ血で血を洗う争いを続けた以上、仮にISが崩壊したとしても、その後で彼らが元通り「一つのイラク」でやっていけるかには、疑問の余地があります。その意味で、宗派・民族ごとに国を分けるアイディアには、シーア派中心になりがちな政府への反感を和らげ、対立を沈静化する効果を期待できます。
ただし、「スンニスタン」が実現したとしても、それでISなどによるテロ活動が根絶されるとはいえません。
まず、これまでにも指摘されてきたことですが、イラクなどでの活動拠点を失ったISは、各地に飛散する傾向をみせています。イラク、シリアに次ぐISの活動拠点をみなされてきたリビアでは、12月5日に最大拠点シルトが解放されたことを国連が確認しました。しかし、ISメンバーがイラクを追われれば、欧米諸国、東南アジア、中央アジア、アフリカなどでの活動を活発化させることは、充分あり得ます。「スンニスタン」が実現してもしなくても、その点には大きな変化がないとみられます。
のみならず、IS打倒後に仮に「スンニスタン」構想が実現し、イラクが三つに分かれたとしても、それぞれの宗派・民族のなかには、自らが多数派である地域の外で暮らしている人も多くいます。一方、宗派・民族ごとに分裂すれば、それぞれのエリアで特定の宗派や民族性が特別な地位を占めることになるとみられます(例えば、「スンニスタン」ではスンニ派が実質的なスタンダードに位置づけられでしょう)。
歴史を振り返れば、宗派・民族の違いを理由に領域が分断された時、それぞれのエリアで、それまで抑圧されていた多数者が抑圧する側に回ることも、特定の宗派・民族がスタンダードと位置づけられることで文化的少数者がそれまで以上に抑圧されることも、珍しくありませんでした。第一次世界大戦の終結後、それまでオーストリア・ハンガリー帝国に支配されていた諸民族は米国大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」の原則によって独立を果たしましたが、それまで「支配される側」の代表格だったセルビア人は、ユーゴスラビアで実質的に他の民族を従える体制を築きました。第二次大戦後の1947年、パレスチナ分割によって独立したユダヤ人国家イスラエルでは、パレスチナ人をはじめとするムスリムが二級市民の扱いを受けています。冷戦終結とソ連崩壊と相前後して独立したバルト三国では、ロシア帝国時代からの因縁もあってロシア人が社会的に疎外されています。
仮に「シーアスタン」でスンニ派住民が差別的に扱われたりすれば、その不満はISやアルカイダなどスンニ派のイスラーム過激派の関心を呼ぶ要因になりかねません。2005年以降のイラクで、少数派を保護する制度が導入されながらも、実際にはスンニ派やクルド人が差別的な扱いを受けてきたように、制度の導入そのものが重要であったとしても、人間のマインドがそれにともなわなければ、想定された効果を期待することはできないのです。
宗派対立の火種
これに加えて、「スンニスタン」構想には、中東における利害対立をこれまで以上に複雑化する懸念があるため、実現するかは不透明です。
既に述べたように、「スンニスタン」は主に米英の外交サークルで取りざたされている問題ですが、現在のイラクの一部にスンニ派の国ができることは、周辺のスンニ派諸国とりわけサウジアラビアにとって悪い話ではありません。サウジ政府はイランとの対抗上、イラクにとどまらず、クルド人が居住している地域一帯に「スンニスタン」を広げることを試みる可能性があるという見方すらあります。
その一方で、現在のシーア派中心のイラク政府からみて、IS打倒後の安定は必要であったとしても、「イラク分割」は歓迎できかねるものでしょう。その点では、シーア派で共通し、バグダッドの後ろ盾として、兵員をイラクに送ってきたイランにしても同様です。
サウジなどスンニ派諸国とイランは、それぞれイエメン内戦に介入して争っており、それはさながら宗派間の代理戦争の様相を呈しています。「スンニスタン」の実現は、中東の大国を巻き込んだ宗派対立を加熱させかねないといえます。
さらに、スンニ派諸国は伝統的に欧米諸国と友好的で、イランは反米的という構図が長く定着していましたが、昨年のイラン核合意の前後から、この関係に揺らぎが生じ、欧米諸国とサウジなどとの間に隙間風が大きくなる一方、イランが「国際社会への復帰」を果たしてきました。このような微妙なバランスの上に、さらに「スンニスタン」の衝撃が加われば、中東をめぐる国際関係がさらに複雑化することが想定されます。
トルコはどう反応するか?
これに加えて、トルコの動向も重要なファクターになり得ます。
トルコ国内では、分離独立運動を進めるPKK(クルド労働者党)が政府に対する攻撃を続けてきました。トルコ政府はPKKを「テロ組織」と位置付けており、シリアやイラクのクルド人勢力がこれと結びついていると主張しています。
このようなトルコ政府にとって、「スンニスタン」構想が現実味を帯びることは、国内のクルド人勢力がこれに触発されないか、神経をとがらせざるを得ない問題です。その場合、米英が「スンニスタン」構想の実現に力を入れるほど、NATO加盟国でもあるトルコとの隙間風は、これまで以上に大きくなるとみられます。
ただし、そこには別の見解もあります。「トルコのエルドアン大統領はPKKへの警戒を解かないものの、パイプラインを通じたクルディスタンからの石油輸入には関心が強く、さらに『反シーア派政権』という点でも共通するので、イラクのクルド人勢力と協力できる」という見方です。この観点からみれば、11月26日にはイラク首相が「モスル解放作戦の開始後、ペシュメルガがそれまで解放していた地域から撤退して、イラク軍と協力してISにあたると両者が同意したことに、トルコ政府が驚いている」とわざわざ言及したことは、イラクのクルド人勢力をめぐるイラクのシーア派政権とトルコの間の綱引きを示唆します。少なくとも、トルコの対応が「スンニスタン」構想のゆくえに大きく影響を及ぼす変数であることは確かでしょう。
こうしてみたとき、「スンニスタン」構想に少なからず副産物が付いて回ることは避けられません。その実現を左右する最大のポイントは、シーア派中心のイラク政府が、どの程度強硬に抵抗するかでしょう。仮にそれを押し切って「スンニスタン」独立を進めれば、アラブ諸国の反対を抑えて進められたイスラエル独立がもたらしたパレスチナ問題以来の深い禍根を中東に刻むことにもなりかねません。ISは世界の矛盾が生んだとも言えますが、その封じ込めは、次の難題を提起するものでもあるといえるでしょう。