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ルポ 復興オリンピック閉幕。復興という冠がついた理由の一つの町「双葉町」を歩く

吉川彰浩一般社団法人AFW 代表理事
常磐線双葉駅。ルポはここからスタート。筆者撮影。

今日、東京オリンピックが閉会式を迎える。

連日伝えられる日本だけでなく世界中のアスリートが活躍する姿は、感動と力を届けている。

どの様な環境の中でも諦めず努力し続ける意義を頂いた。

一方で「復興五輪」と銘打たれたオリンピックであったことに、救いを求めていた私は、心が晴れずにもいる。

これから綴るのは、個人的な思いや経験が多いに含むルポルタージュ。

客観性ではなく、主観がもとに綴られたものだ。

復興五輪と銘打たれる理由を作ってしまった東京電力福島第一原子力発電所(文中ではイチエフ)で働き、今も人が住んでいない町に住んでいた者が書いている。

自分自身に問を投げながら福島県双葉郡双葉町を歩いた。

私はかつてこの町に住んでいた。今から20年以上前になる。

住んでいた理由は東京電力に入社し、福島第一原発で働くことになったからだ。

新入社員当時、社会はミレニアムで沸いていたことを思い出す。

それが福島県で人生が始まった理由であり、始まりの場所、双葉駅からこのルポを始めていく。

現在の常磐線双葉駅。筆者撮影
現在の常磐線双葉駅。筆者撮影

2021年8月7日夕刻 双葉駅に立つ。

常磐線に揺られながらボストンバッグ一つを抱え、初めて双葉駅に降り立った思い出が鮮明に蘇ってきた。

親元も離れ、全く未知の世界で自分はやっていけるのかという不安と、社会人となりこれからきっと良き未来が待っているだろうという期待が入り混じった感覚だ。

夢をもってここに立っていた。これからお世話になる寮にどう行けばよいか分からず、駅前に停まっていたタクシーのお世話になった。

行先を告げ乗り込むと、「東電さんの新入社員さんね」と言われ、「さん」と呼ばれ親しく扱われることにきょとんとしたことも覚えている。

双葉駅前風景 筆者撮影
双葉駅前風景 筆者撮影

あの時の駅、駅前と今はずいぶん姿が変わった。駅舎は立派になり、ロータリーも整備されている。

駅前は殺風景だ。通いなれた店もなくなり、砂利が引かれ空き地となっている。

商店が並び見えないはずの通りまで見えている。

ここで聖火リレーが行われた。原発事故が無ければ、どれほどの人で賑わったのだろうか。きっと自分もそこにいて大はしゃぎしたのだろう。こんな小さな町に聖火が来たと。

分りきっていたことだが、当時の夢をもっていた自分とは違い、何が起きて今に至るのか知る自分には、同じように一人で立っているにも関わらず、虚しさと情けなさ、無力感がこみ上げてきた。

駅前に作られた花壇。双葉町を象徴する草花が植えられている。バラもその一つ。筆者撮影
駅前に作られた花壇。双葉町を象徴する草花が植えられている。バラもその一つ。筆者撮影

駅前のロータリーに作られた花壇で一人忙しそうにバラの手入れをしていた女性がいた。この町の町づくり会社で働いている女性だった。(バラが植えられている理由は町内にある多くの観光客が訪れた「ふたばバラ園」からきている。)

この町に少しずつ彩を作ろうとしている。彼女はこの町育ちだ。復興と呼ばれる時間の中で知り合った人の一人。

誰もいないわけではない、この町はこれからまた人が暮らす町へと少しずつ歩を進めている。

この暑さの中、汗を流す彼女の姿から元気を頂いた。挨拶を交わし、これからちょっと双葉町を散歩してくるねと返す。

「気をつけてね!」とにこやかに送り出された。

気を付けてね、町をただ歩くのに本来言われる言葉ではない。人が住んでいない町は今は獣の方が多い。自分も猪が闊歩していることは知っているので、その意味で注意を払いながら歩こうと思う。

駅前をスタートし、じりじりと照り付ける暑さの中歩いた。どこへ行こうか。旅路は東京電力の社員として降り立った自分から始まっている。よし、かつて住んでいた寮へと思い、歩き始めた。

町民に慕われた飲食店跡地にはアート作品(OVERAALLS作)が描かれている。筆者撮影
町民に慕われた飲食店跡地にはアート作品(OVERAALLS作)が描かれている。筆者撮影

駅前の商店街通りを歩く、この道は「混在」している。まるで時が停まったままの風景と、復興と呼んでよいのか解体が進み整備された風景がだ。

駅前から一本入った商店街通り 筆者撮影
駅前から一本入った商店街通り 筆者撮影

大切な家、建てた時にどんな思いを抱いたのだろう。今、41歳になった自分は家を持つ歳になって考える。

家族のために家を持ちたい、誰もが思うし、実際に立てた家は頑張ってきた自分の象徴だ。そして支えてくれた家族にも感謝の思いが湧き立ち、そしてここで暮らしていくことに夢を持つ。

そんな家を解体するという決断の先に、この砂利の風景がある。

一方で、解体されていない、いやしない家屋も同様だろう。それぞれの思いが伝わってくる。

町中を歩き始めると、一人ぼっちになった。誰もいない。町に血が通っていない。蝉の鳴き声だけが響いている。

歩きながら、ぶわっと思い出した。ここで盆踊りをしたことを。流れる汗と夏の匂いによって。

通りにある、図書館に足が向いた。図書館の向いには運動場がある。通りを練り歩いた後に、ここで櫓を囲い、みなでぐるぐると踊るのだ。

櫓が組まれ、この運動場で盆踊りを開いていた。筆者撮影
櫓が組まれ、この運動場で盆踊りを開いていた。筆者撮影

小さな町、大きなイベントなどは当時なかった。夏を彩ると言えば盆踊り、ワクワクとする。

本来なら、間もなく盆だ。町中がそわそわとした雰囲気に本来あって、夏休みを迎えた子供たちが遊び回っている。

この道は、地元の高校。双葉高校へにも繋がっている。一人歩きながら、そういえば学ランを来た高校生が毎日通っていたっけと思い出す。何でもない通りを騒ぎながらあの子たちは歩いていた。今はもう大人になっている。歳的に家族をもっていてもおかしくはない。

避難という生活の中で、今は移住にも等しいと思う。2011年から10年以上も経っている。

友人たちと騒ぎながら、歩いていた彼らは今どこで何をしているのだろう。

通い続けた居酒屋の前で足が止まる。ここで奥さんとも出会った。自分にとっては特別な場所だ。

奥さんの母方の実家でもある。まさか、通い続けた飲み屋が親類になるとは思ってもいなかったが、あるある話だ。

自分の様な他県出身の東電社員は、暮らしの仲で出会い、地元の人と結婚をし、地元の人間へと変わっていく。

お盆が近づいている。今はコロナ禍で家族に会う事すら憚られている。私も生まれ育った茨城には帰らない。

義理の祖父母の顔が浮かんだ。この町で生まれ、この町でずっと暮らしてきた人間だ。会いに行こうと思った。少し気が早いけれど。

双葉町町内にある墓地。 筆者撮影
双葉町町内にある墓地。 筆者撮影

町中にある墓地へと足を進めた。妻の祖父母は避難生活の中、避難先で亡くなった。何度墓参りに行っても、親類だけで葬式をした日の事が頭をよぎる。寂しい葬式、どうしてそうなったのかは、親類誰もが分っている。

そして身内に東電社員がいることも。

涙が込み上げてしまう。申し訳がない思いと、くやしさと、情けなさが。

とても大事にしてもらっていた。避難先で厳しい暮らしの中でも祖父母はいつも応援をしてくれていた。辛さをぶつけられた記憶はない。

「頑張れ」

その一言で何度も何度も救われてきた。

涙はすぐに拭いた。特別なことではないからだ。双葉町にルーツがある人からすれば、同じような思いをされてきた方がごまんといる。

常磐線が原発事故後開通した日(2020年3月14日)、双葉駅に行ったことを思いだす。その時、大切に、そして愛おしそうに大きな紙袋を抱えた男性に出会った。

その紙袋を除くと、お骨が入っていた。覗き込んだことを知った男性が話しかけてきた。

「やっと電車が通り、誰でも来られるようになった。母に見せたかったんです」

奮えていた。その震えが嬉しさだけでないことだけは分かった。

手を合わせる。墓参りとは感謝だと毎度思う。今はまだ人が住んでいない双葉町だが、また人が住めるようにと歩みが始められた中で、自分に出来ることをしようと強く刻んだ。

墓地を見渡す、丁寧に雑草が抜かれたお墓がある一方で、荒れたお墓がある。攻めることなど出来ない。遠く離れ離れになった。それぞれの事情がある。

それぞれのお墓には苗字が刻まれている。古いお墓も目に入る。どれくらいの時をここは刻んできたのだろう。

戒名が刻まれた墓石を見れば、何百年と前の元号が刻まれているし、戦争で多くの方が亡くなられたことも分る。

時代の先にある。現在の姿を今も見つめているようにも感じた。

双葉町町内にある東京電力独身寮 筆者撮影。
双葉町町内にある東京電力独身寮 筆者撮影。

入り口には、どんな場所であるかが掲示されている。筆者撮影。
入り口には、どんな場所であるかが掲示されている。筆者撮影。

道すがら、東京電力の寮の前に着いた。この町には複数、東京電力の寮がある。自分は他県出身だが、こうした寮には地元出身の者が多くいた。

新入社員は地元出身であろうと、寮生活から始められることが義務付けられていた。地縁のない人間は、寮の中でまずは繋がりをもっていく。

自分自身も同じ寮にいた双葉町出身の社員に誘われ、ママさんバレーや地域のバスケット愛好会に参加していた。

当時は10代だったからか、ずいぶんと可愛がってもらっていた。

確かにここで、双葉町の住民というアイデンティティを築いていた。

双葉高校へと向かう。双葉郡随一の野球の名門校だ。

震災の前、仕事を終え、暗くなった道を歩いていると、野球部が練習をしている声が町に響いていた。丸坊主の野球少年が遅くまで甲子園を目指し、声を張り上げ練習をしていた。

今はどうなっているのか。

双葉高校。 筆者撮影。
双葉高校。 筆者撮影。

グラウンドは草木が生い茂っていた。この風景だけを見た人には、荒れ果てた、打ち捨てられた高校に写ってしまうだろうと思った。

野球部だけではない、この学び舎でどれだけの学生が育っていったのか。今は見ることも出来ないとしても、その前の姿を目に映そうと懸命に目を見開いた。

かつての姿を知る自分には、映った。

今の姿で判断してはいけない。あの日の姿がこの場所の尊厳を否定しないでくれている。

「今は」なのだ。人が暮らすようになる未来は必ずある。その様に進められている。

子供たちが健やかに学校にいる。そんな当たり前の風景とは、ここから作っていければいいし、行けるように自分はと。。。考えながら歩き続けた。

町内を走る国道6号。 筆者撮影。
町内を走る国道6号。 筆者撮影。

町の中心には国道6号が走っている。今日は土曜日だ。復興事業者も少なく、人も暮らしていない町を走る国道に、本来の姿がある。

国道を渡る。平日ならば相当気をつけなければならない。大変な交通量があるからだ。原発の廃炉、地域の除染、避難区域内の整備事業、多くの工事用の車両が行きかうからだ。

簡単に渡れてしまう国道を渡り、通い続けたコンビニと町に1件だけあった本屋、薬局へと向かう。

廃町ではない。捨てられて忘れ去られた町でもない。そんな町の国道に面したお店だ。

国道に面したコンビニ。筆者撮影。
国道に面したコンビニ。筆者撮影。

日々、誰に知られなくても解体が進み、インフラ整備が進んでいく。町はどんどん震災・原発事故前の思い出を感じさせる風景が減り、また原発事故がもたらしたことを感じさせる風景も無くしていく。

今や数少ない、原発事故が生んで姿を遺している。

駐車場に置かれた車。筆者撮影。
駐車場に置かれた車。筆者撮影。

アスファルトを突き抜け、草木が茂っている。

2011年3月12日。イチエフ(現地では福島第一原発をこう呼ぶ)が爆発するかもしれないと言われ、急遽当てもなく、すぐに戻れるだろうという思いもあった中で、置いていかれた車が町内には今も散見される。その一つだろうか。

胸が苦しくなる。

いつまで避難とも言われず、何が起きているかも知らされず、着の身着のまま、当てもなく、町を離れた人たちがいた。

このお店たちの人たちと、とても仲良くさせて頂いていた。どんな思いでお店を経営しているのかも知っていた。常連だった。買い物をしながら、お互いの話を何度も交わした。

本屋、コンビニ、毎日のように通うものだから、趣味嗜好が伝わる。おすすめをしてくれる。時にはお客とお店の付き合いを越えて、心配もしてくれた。

薬局では、通い続ければ身体にあうあわないのことまで覚えてくれていた。病院に通う暇がなくても、自分の体を知ってくれている薬局があることに救われてきた。

支えてもらっていたのだ。何気なく暮らしていただけだが、自分一人で生きてきてはいなかった。

当たり前が当たり前でないと、なくなってから悔やんでも仕方がないのに。

左:双葉町役場。右:筆者が住んでいた東京電力の寮。
左:双葉町役場。右:筆者が住んでいた東京電力の寮。

双葉町で暮らしていた当時、自分が住んでいた寮にたどり着く。道路を挟み、双葉町役場がある。

役場の目と鼻の先の関係。こんなにも近い存在だった。

イチエフで働きながら、ずっと安全だと言っていた自分はここに住んでいた。

原発事故の当時、情報混乱は凄まじく、町民の安全安心を司る場所に向けて、正確な情報すらあの当時だせなかった。

有事の際に助けられる関係性を少なくとも自分はもっていなかった。

中央に写るは双葉町役場。写真右手奥に車で数分の距離に福島第一原発がある。
中央に写るは双葉町役場。写真右手奥に車で数分の距離に福島第一原発がある。

後悔ばかりが押し寄せてくる。町中を随分と歩き回っている。だんだんと夕暮れが迫ってきた。

そらを見上げると、虹がかかっていた。イチエフの方向から立ち上がっている。(虹は見る場所で位置も変わる、方角的に見えただけ)

「何だ!皮肉か!」思わず口に叫んでしまった。

どす黒い思いに包まれた。

だが、いけないとも思った。自分の後悔で下を向き、勝手に背負うなどもおこがましいと。

まだ、渦中なのだから。

虹に当たってしまうほど、まだまだ弱い自分がいるだけだ。

町の海水浴場(郡山海岸)を案内する看板。 筆者撮影。
町の海水浴場(郡山海岸)を案内する看板。 筆者撮影。

小さな看板が目についた。

町の海水浴場を案内するものだ。かつての夏の思い出が浮かんだ。小さな海水浴場だったが、よく通っていた。

サーフィンもしたし、夏になれば若い時分は出会いを求めても。釣りにも良く通っていた。今時なら、夏らしい風景がそこにはある。

町の子供たちに向けて、肝試しを開き、脅かし役として参加したこともある。

落ち込んだ時ほど、思いでの場所に助けられる。海へと向かった。

中間貯蔵施設の1画。一般の人の出入りは禁じられている。筆者撮影。
中間貯蔵施設の1画。一般の人の出入りは禁じられている。筆者撮影。

すぐに足が止まった。思い出の場所に続く場所はバリケードが張られている。海へと続く道には中間貯蔵施設と呼ばれる、原発事故で生まれた汚染した土壌を保管するエリアに変わっているからだ。

よほど珍しいのか。携帯片手に写真を取りながら歩いている私を警備員の方が見ている。

何も悪い事はしていない。自分が暮らしていた町が自由に今は歩くことが出来る。ただ散歩をしているだけだ。

だが、気持ちも分る。今の双葉町を散歩している人間などいないから。

福島県全体の復興を進めるため、受け入れられた場所。そうした解釈で中間貯蔵を受け止めている。2045年まではこの風景は続く。

バリケードはそんな先まで続くのだろうか?それともそうしたモノがありながらも、町は人が暮らすようになり、植えられた木が境界線になるのだろうか。

原発事故が生み出した負の象徴でもある除染度が隣り合う暮らし、今の自分には想像がつかない。

中間貯蔵施設のエリアは通れないので、迂回して海へと向かう。このエリアは工業団地化を目指し、整備が進められている。

田園風景が広がっていた姿は今はない。

写真左:双葉町産業交流センター。右:東日本大震災・原子力災害伝承館
写真左:双葉町産業交流センター。右:東日本大震災・原子力災害伝承館

変わって、この場所に2020年9月20日に東日本大震災・原子力災害伝承館が開館した。

双葉町の津波被災沿岸部は、復興記念公園として整備が進められている。筆者撮影。
双葉町の津波被災沿岸部は、復興記念公園として整備が進められている。筆者撮影。

伝承館の周りは、復興記念公園として整備され、綺麗な芝生が広がっている。

この場所は、世界史的出来事が起きたことから学び得ようという思いの元に作られている。

コロナ禍で客足は相当に落ち込んではいるが、ここまで広がる前は全国の修学旅行の行先にもなっていたし、福島県内だけでなく福島県外からの来訪者で賑わっていた。

町の状況は今も渦中だが、既に東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故からの教訓を生み出そうとする試みは始まっている。

そしてそれは観光として成り立たせようとも進んでいる。

町中の状況と比べた時に、異質なものだと感じる自分がいる。

公共の予算が充てられた場所は大きく進む、一方で個人に任される部分はその個人でしかやりようがない。

町中との対比は、行政として出来ること、個人として出来ることの明確な差なのだろう。

伝承館のすぐ近くには、津波被災ガレキの置かれている。筆者撮影。
伝承館のすぐ近くには、津波被災ガレキの置かれている。筆者撮影。

伝承館のすぐそばには、津波で被災した車両等が集められた一角がある。

津波の凄まじさを感じさせる。

そして手を合わせる。この場所からイチエフは目と鼻の先だ。車で数分という距離。

津波で壊滅的な状態であっても、そこに人がいた。今見つめている車両にはもしかしたら誰かが乗っていたのかも知れない。

長くこの地域に住んできた。

友人には消防、警察、消防団といった有事に人を救いに行く人たちがいる。

彼らから聞く話は言葉に絶する。助けられる命をあの時、救いに行けなかったと。

津波被災エリアには助けを求める人が必ずいた。だけど原発事故の影響で立ち入りが制限され、行くことが出来なかったと。

彼らが本格的に救助に入れたのは1か月も経ったからだ。災害では72時間という言葉が飛び交う、3日だ。そのタイムリミットを越えると、被災者の命は極端に厳しくなってしまう。

普段から命を扱う人たちが、72時間をはるかに超えた時間の中で、それでも救助という思いで向かったのだ。

手を合わせ、写真を撮らせてもらった。

どうしても写したかった。東日本大震災・原子力災害伝承館と共に。

この地域で語られる「復興」という言葉がとても当てはまるからだ。

そろそろ結びへと入ろう。

かつてこの町で、あの会社で幸せな人生が待っていると思っていた自分は、想像もしなかった未来の中にいる。

東京電力を辞め、ただの一人の人間になり、コロナ禍にも翻弄されながら、自分が身を置いた場所に向き合い続けている。

おこがましい限りかも知れないが、自分の人生を通して、次世代へと学びを伝えることを生業にした。

思い出は色褪せずにいる。だが、今ではその姿を直接に見ることも出来ない。

原発事故後に訪れる人達には、見えない風景がある。

時折、映画リメンバーミーを思い出す。この映画は主人公が死者の国行き、忘れてはいけないという事を知り、家族の絆を再認識する映画だ。

この死者の世界では、本当に家族からも忘れ去られた時に死者は消滅してしまう。

今のコロナ禍のように社会の関心ごとの中心軸に、東日本大震災・原発事故があったのは昔のことだ。

その昔はたったここ10年のこと。

福島県という大きな主語で見た時、ほとんどの場所は日常が戻っている。当たり前の風景が広がっている。

福島はなどと語れば、復興したと語っても過言ではない。

だけれども、その福島の中に位置する小さな町、福島第一原発に近い地域では復興したなどとは言えない風景が残っている。

双葉町だけではない。原発事故の影響で避難区域となった市町村では、今日の私のように町を歩けば、同じ日本の中で起きている現実とは思えないものが広がっているのだ。

それが忘れ去られている。

知ってもらえてもいない。

そんな囚われに私は襲われてしまい、恐ろしいとすら感じてしまうのだ。

リメンバーミーの世界の死者の世界の住人の恐れがリンクしてしまう。

まるで社会から取り残されて、見捨てられ、なくなってしまうような。

復興五輪、この言葉に救いを求めていた。きっとまた忘れ去られぬことなく振り向いてくれるだろうと。

そして前を向いて進もうと、この町をこの地域を繋いでいく人たちを後押ししてくれるだろうと。

随分と都合の良い、現地の人間としての私の声。間違った意味で使われる他力本願の思いで、正直な吐露。淡い期待ともいう。

その時間はもうすぐ終わりを告げる。

車に乗り、家路につく。

この町から車で15分ほどで、今の我が家に着いた。今日、オリンピックが閉会する。アスリートの皆さんから受け取った、諦めない強さを刻もう。

かつて身をおいた町が、また自分が暮らしていた時と同じように人々が笑って暮らせる時代は検討が付かないほど先にある。だが、確実にあるのだ。

それが少しでも近づくように動かなければ!

地域で暮らす人間として。

あとがき

原発事故により故郷を遠く離れた方、また近隣で暮らす方々をいたずらに傷をつけるつもりで書いたものではありません。

ですが、このルポによって傷ついた方がお一人でもいらっしゃれば、本当に申し訳がありません。

また、同様に福島県の復興に尽力されてきた、されている方々も同様です

一般社団法人AFW 代表理事

1980年生まれ。元東京電力社員、福島第一、第二原子力発電所に勤務。「次世代に託すことが出来るふるさとを創造する」をモットーに、一般社団法人AFWを設立。福島第一原発と隣合う暮らしの中で、福島第一原発の廃炉現場と地域(社会)とを繋ぐ取組を行っている。福島県内外の中学・高校・大学向けに廃炉現場理解講義や廃炉から社会課題を考える講義を展開。福島県双葉郡浪江町町民の視点を含め、原発事故被災地域のガイド・講話なども務める。双葉郡楢葉町で友人が運営する古民家を協働運営しながら、交流人口・関係人口拡大にも取り組む。福島県を楽しむイベント等も企画。春・夏は田んぼづくりに勤しんでいる。

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