あの日から10年 当たり前の尊さと感謝を思う日
筆者は、毎年3月が近づくと特別な場所として語られる地域で長年暮らしてきました。あの日から、様々な社会課題として語られ続ける場所で。。。
そのような立場から、この記事を読んでくださった方が、今日この日を大切になさって頂けたらと願い、記事を書いています。
冒頭の写真は、昨年の夏、筆者の自宅に初めて遊びに来た甥っ子が、庭に植えたナスをもぎった時の様子です。
この写真を、多くの方にとっては何の変哲もないものだと取るのではないでしょうか。ですが、その背景にあることを少し知れば、それは見方が変わってくれるものと思います。
かつて警戒区域と呼ばれた場所
筆者の自宅は、福島県南相馬市小高区という場所にあります。福島第一原発から20km圏内、福島第一原発までは車で20分ほどで行ける距離です。
この町の沿岸部では、大津波により壊滅的な状態が生まれ、多くの方が亡くなっています。その町は、警戒区域に指定されバリケードが引かれ、そこで暮らす住民の方ですら住むことが一時的に許されなかった場所です。
福島第一原発の状況次第では命の危険があるとされたからです。その後、原発の状況が落ち着いていった後でも、放射性物資の汚染により長らく避難区域となっていました。
福島にルーツがある子供
甥っ子の母は、今日10年目も迎えても避難区域(帰還困難区域と呼ばれる場所)が続いている場所に実家があります。この子のルーツを辿っていけば、福島県にたどり着くわけですが、そのルーツとなった場所には立ち入ることは現在出来ません。
こうして写真の背景を書けば、また違った見方が生まれてしまうのではないでしょうか。中には、存在意義を否定をする人もいるかもしれません。
そんな場所で・・・・とか。なんて可哀そうな・・・とか。この違った見方を軸に伝えたいわけではなく、語りたいわけでもなく、3月11日という日に触れることの意味についてお伝えできればと思います。
当たり前の尊さと感謝を知る日
この日の姿は、「当たり前」とされる日常の一コマです。ですが、私自身はとても愛おしい感情だけでなく、また別な思いを抱きました。
それは尊さと感謝です。10年前、沢山の方の暮らしと人生が原発事故によって壊れていきました、現在のコロナ禍にも通じることですが、出来ることが制限され、いつも傍らにあった風景が突然失われたときに、初めて分る痛みがありました。その痛みは日常が尊いものであったことに気が付き、そして復興と表現される日々の中で、そこで暮らしてきた人たちだけではなく、沢山の方の努力の先に、一歩一歩日常を取り戻してきたことが重なるからです。
この子は原発事故も震災も知りません。理解できる日が来るのはずっと先のことです。私は、あの日からの出来事を、いつか甥っ子にしっかりと話してあげようと思っています。
当たり前は突然大きな力で覆ってしまう現実があること(原発事故と震災)、当たり前とされる姿の向こう側には沢山の人の努力が繋がっていること(日常を取り戻すために何が行われてきたのか、それからの日々について)を。
当たり前を当たり前と思ってはいけないよと。
3月11日は、原発事故とは、どういった意味で象徴となり続けるのでしょうか。悲しみ・怒り・痛みだけではないはずと思います。ましてや福島を象徴するものでもないはずです。
普段の何気ない日常、当たり前とされている日々の意味や価値は、本当に気が付きにくいものです。
また日常の姿がニュースになることはありません。福島県の日常が社会に伝わらないのも、それゆえですし、またそれは誰もが日常に目がいかなくなっている鏡映しなのかもしれません。
被災地と呼ばれ続ける場所で起こったこと、課題ばかりが語られ、そこで終わってしまうのではなく、日常の姿に目を向け、日常に意味や価値が感じられることが大切なのではないかと思っています。
今日この日が、誰にとっても、当たり前の尊さを学び、感謝する日であって欲しいと願っています。