環境対策の成果 よく見えるようになった富士山
無降水記録の裏側で
東京都心(千代田区北の丸公園)は昨年12月23日から1月12日まで連続21日間の無降水(降水が全く無い)を記録しました。観測場所の多少の移動はありますが、これは1886年の統計開始以来、二番目の長さです。
その記録のかげに隠れて注目されもしていませんが、この冬は都心から富士山が非常によく見えています。個人的にいうと、私の住んでいる場所から富士山の全体像は見えません。しかし雪の積もっている裾野(すその)の一部がわずかながら見えるのです。その“白い部分が見えれば富士山が見えた”とカウントすると、今年は年明けから13日の朝まで毎日見えました。実は富士山は、昔に比べると都心からとてもよく見える山になっているのです。
江戸時代よりよく見える富士山
江戸時代、高い建物の無かった頃は、江戸からさぞや富士山が見えるだろうと思いがちですが、実際には舗装されていない道路や土埃の舞う畑が多く、しかも野焼きなどの煙もあったりして、年間に見える日数は70~80日ぐらいだったと推定されています。その後明治初期は、アメリカから日本に来て物理学や数学を教えていた、P.V.ヴィーダーの観察記録によると、文京区本郷から富士山が見えたのは304日間のうち82日(1877年(明治10)12月21日~翌年10月21日まで)。そこから推定すると年間100日くらいだったとの記述もあります。
そして現在は、2014年頃から年間100日を超える日が当たり前になってきました。観測場所が違うので単純な比較はできませんが、昔より都心から富士山が見えるようになっているのは、ほぼ確実だと言えるでしょう。
”富士山見える観測”をしていた私
個人的なことですが、私は1974年に気象協会東海本部から東京本部に転勤してきました。その頃、私が担当したルーチンワークの一つが、気象庁(大手町)の屋上にあがって(午前10時ごろ)、富士山が見えるかどうかを確認することでした。
富士山の見え方を、よく見える・かすかに見える・見えないの三段階に分けて、それを東京都庁に連絡するのです。なぜそんなことをするのかと言えば、大気汚染を確認するためです。
1960年代の高度経済成長は、日本を豊かにした反面、様々な環境への負荷もかけました。その一つが大気汚染です。当時は煙突からの排煙防止策もままならず、工場の多い地域では喘息などの呼吸器系病気も多発しました。そこで国は1968年(昭和43)に大気汚染防止法をつくり、環境に対する規制を強めました。その一環として、環境監視も行われるようになったのです。
その観察結果が上のグラフです。先に載せた90年代以降が年間80日以上だったのと比べ、70年代から80年代の日数はおよそ年間40日。年によっては20日程度しか見えないこともありました。しかも年々減少傾向だったのがよくわかります。
また、大気汚染の濃度がひどくなるかどうかは気象条件によって決まることがわかっていました。とくに冬季は地上気温が下がると“逆転層”という現象が起きて、スモッグなどがより深刻になりました。興味深いことに逆転層が起きると、都心から近い丹沢の山々は見えず、逆に100キロもの遠くにある富士山頂が見えるというようなこともありました。したがって単純に「富士山が見えるから空気がきれい」ということにはならないところが気象の難しいところだと思いました。判定でいうと、”かすかに見える”というのは、空気がよどんでいる証拠でもあります。
”富士山見えるグラフ”から見えるモノ
グラフを再度確認していただくと、この東京都の富士山が見えた日数は当然のことながら年によって差があります。ところが近似線で見てみると、90年代は80日程度、それが2020年代は110日を超えているので、あきらかに右肩上がりで、30年くらい前に比べると20日以上も富士山の見える日が多くなっている事がわかります。
この理由は明確です。大気汚染防止法を始め、さまざまな法的な規制、そして多くの人々の意識が変わったことによって、環境を守ることが最重要な社会的課題となったからです。
富士山の見える日グラフは、大気汚染が克服されていったグラフと読み解くことができるのです。
参考
東京都環境局HP
2013年5月読売新聞 筆者コラム「晴考雨読」
1993年4月11日付 朝日新聞
日本鉱業会誌 明治初期におけるお雇い米国人科学教師の足跡 著渡辺正雄