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2021年の「箱根駅伝」タスキあとに倒れた選手は40人 TVコンテンツ「箱根駅伝」人気の根源を探る

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

箱根駅伝は、お正月の風物詩となっている。

1月の2日と3日、午前中から昼すぎまで、ひたすら走る若者を多くの人がテレビで眺めている。

駅伝競技そのものはスポーツであるが、「箱根駅伝」は単なるスポーツ中継を超えて、日本人に深く愛されるエンターテインメント・コンテンツになってしまっている。

なぜ「箱根駅伝」はそんなに人気があるのだろう。

箱根駅伝の魅力は「タスキに込められた情念」を10人で運ぶところにある

箱根駅伝の魅力はやはり「タスキのリレー」にあるだろう。

1人20kmを超える長距離を走り、それを10人でつなぐ。

途中で1人具合が悪くなって完走できなければ、チームそのものの記録が残らない。走っていないのと同じ扱いになる。

走りきったとしても、調子を落としていつもどおりに走れない選手が1人いると、順位がとても落ちる。

みんなが全力でつないでいかないと、成果が出ない。

個人個人が身を削るような努力を重ねて、全員で出す成果につないでいく。

その「みんなでつなぐ風景」が広くうけいれられているのだとおもわれる。

ケニア出身の選手は走り終わっても苦しそうにしない

2021年第97回の箱根駅伝を、しっかり見てみた。

この中継はあらためて日本人の心情に合う風景だとおもった。

だからお正月に合うのだ。

いま箱根駅伝には海外の留学生選手がそこそこ出場している。

山梨学院大学、拓殖大学、創価大学、東京国際大学などにいる。

2021年はみんなケニア出身の選手であった。そして走ると早い。

出てくるのは往路である。なぜかみんな1日目にかためられている。

そこにはいろんな思惑があるのだろう。

彼ら留学選手の走りを見ていて、気がついたことがあった。

ケニアから来た留学選手は、タスキを渡したあと、誰も苦しそうにしていない。

倒れ込まないし、タオルに包まれて運ばれたりしない。

みんな淡々とゴールして、淡々と控え場所へと向かっている。

考えてみれば、彼らがふつうである。

長距離選手が20kmを走ったからといって(それぞれの区間はすべて20kmより少し長いが、だいたい20kmとして話を進める)もちろん疲れるだろうが、でも慣れない距離ではないはずだ。ふつうにクールダウンして、ケアして、戻っていけばいい。

ほかのみんなも20km走破くらいで身体がバラバラになりそうな鍛え方はしていないはずである。

2021年は40人の選手が倒れ込んでいた

でも、苦しそうな選手をとてもよく見かける。

タスキを渡すところまではすごく元気だったのに、渡して数歩進んだあと、何かが切れたように膝をついて、倒れ込んでしまう。倒れなくても、動けなくなってる選手が多い。

2021年の往路復路2日間でどれぐらいの選手が倒れ込んでいたか、数えてみた。

確認できただけで40人である。全体の2割近くになる。

それほどの選手が、タスキをつなぐと、その場で動けなくなるのだ。

スポーツとして見るなら、かなり不思議な光景だとおもう。

不思議だと感じないのは、箱根駅伝をただのスポーツとして見ていないということではないだろうか。

私たちは箱根駅伝に何か別の物語を見出しているのだ。

「使命感」の競技である駅伝

出場する選手は、本来なら、自分の区間でいいタイムを叩き出せばいいだけである。

でも、そう考えてはいない。

前の選手がいて自分があり、あとの選手が走りきってこそ自分の走った意味もある。

チームでの戦いであり、自分の存在は一部でしかない。

そういうおもいで走っている。

団体競技としては当然のことだけれど、でも「駅伝」は純粋な団体競技ではない。競技中は誰の助けも借りずただ一人で走るしかない。もともと個人競技だったものを合体させて作った「後付けの団体競技」だから、個人にかかるプレッシャーが尋常ではない。

「使命感」を強く背負わされる競技である。

おそらくこの「使命感」にまつわる物語を、選手も、見ている私たちも大きくとらえてるのだとおもう。

それはたとえば、「殿の無念を晴らすために吉良邸に討ち入る赤穂の義士の物語」に似ている。

彼らにとって大事なのは、自分ではなく使命である。

また、日没までにシラクスの町に戻らないと友が殺されるという走るメロスの物語や、マラトンでの勝利を早く市民に知らせないといけないと猛然と走りきったアテネ軍の兵士のお話のようでもある。

マラトンの戦いを知らせたアテネの兵士のような「使命」を持った走り

使命を帯びているから、走り終わった選手は倒れるのである。

タスキを渡したら、倒れてしまう。

マラトンからアテネにたどりついた兵士が「わが軍は勝てり」と伝えさえすれば、それですべて果たしたことになる。そのあと我が身がどうなるか、そこまで考えていない。

だから、タスキを渡すまでは諦めない。

足を痛めようが、意識が飛びそうになろうが、それでもひたすら前に進む。這ってでもタスキを渡そうとしている。

「タスキをつなぐ」という使命の前では、自分の肉体はあまり問題ではない。

タスキをしているときは、疲れたからといって、それだけで休む選手はいない。

自分の行動は集団の希望であり、自分の身体といえど自分の勝手都合だけで自由にしてはいけない。

そういう高揚した気分の中にいる。

我が身よりも使命である。

赤穂義士の面々は「吉良上野介のミシルシをいただき、亡き殿の墓前に届けねばならない」と決意したからには、我が身の心配をしている場合ではないのだ。そんなことしたら自分の身が危ないのではないか、ということは考えない。危ないに決まってるが、気にしない。

それと同じ物語である。

メロスは、殺されるのはわかっているがシラクスの町へ日没までに走り戻らなければいけない。それは友と約束したからだ。自分の身を大事にして、友との約束を破るわけにはいかない。

その心根に、見ている者は心動かされるのだ。

それと箱根駅伝はとても似ている。

選手が倒れるのは「使命」からの解放感によるもの

選手は、20km走ったくらいで、それだけで立てなくなるような、そんなヤワな訓練はしていないはずだ。

彼らが倒れるのは、「使命からの解放」による。

身体さえも惜しまずにつき進んだ使命を終えると、とりあえず身体は不要になる。だから倒れる。

このあとも生き続けるだろうから、ほんとうは身体は必要なのだが、使命のことだけでいっぱいだった頭が、すべて要らないと判断して身体を動かすことを止めてしまうのだ。

だから止まる。膝をつく。倒れ込む。前に進めない。

「使命を果たしたあともふつうに動いていい」という事前設定をしていないと、すべて停止してしまうのだとおもう。(そして、そういう事前設定していない人を、私たちはかなり好きである)。

そういうタイプの人が、だいたい全体の2割くらいは存在すると考えていいのではないか。

箱根駅伝のたすきリレーを数えていて、そうおもった。

倒れるかどうかは、鍛え方の差ではない。

世界把握の違いである。

20km走ってきてダイブする姿が見る者の心を揺さぶる

また、ダイブするように倒れてしまう選手もいる。

ふつうの競技なら、たとえば20km走なりハーフマラソンなり、ゴールする前に全速を出したとしても、ゴールラインは駆け抜ける。一瞬でも早くゴールを切ろうとして最後にダイブする選手はいない。20km走って最後に飛ぶ選手はふつういないのだ。

でも箱根駅伝だと、それに似たようなことをする選手がいる。

最後の最後、少しでも早く渡そうと、前のめりになって走り(気持ちは前に行っているが、足がもはやついてきていないのだろう)、最後はタスキを次選手に渡すために身体を伸ばし、ときにダイブするように手だけを突きだして、渡す。

使命はタスキを渡すことにあり、宙に浮いている状態だろうと次選手につながれば、そこで任務は終了する。そのあと地面に落ちようが転がろうがもんどり打って倒れ伏そうが、それはもはや使命の外にある。自分の身体はあとまわしにして、とりあえずタスキをつなぐことだけを考え、無理な体勢で渡すから、転んでしまうのだ。

その姿は、やはり見ている者の心を打つ。

40人のうち倒れ込む選手24人 膝まづく選手が16人

「箱根駅伝」に参加する選手は20校10区間ずつなので200人。

それに関東学生連合チームの10人が加わるので、箱根路を走る学生は全部で210人である。

このうちタスキを渡したあと(5区と10区ではゴールしたあと)、倒れこんだ選手は、テレビで確認できるかぎりで24選手いた。

「倒れる」というのは、横たわった状態、つまり地面に寝転がってしまった選手の数である。もんどりうって倒れる選手もいるが(テレビからずざざざざざーという音が聞こえた転倒もあった)、だいたいは、まず膝をつき、手をつき、くるっと腰を廻して背中を地面につけて伸びてしまう。ないしは、手をそのまま伸ばしてうつ伏せでまっすぐになって寝てしまう。

それが24選手。

膝をついて動けなくなっていた選手は16選手だった。

これは寝転がっておらず、おそらく本人も横になってはいけないとはおもっているようだが、でも立っていられず、膝から崩れ、そのまま両手もついて、四つ這いになっている状態の選手である。

それが16選手。

両方あわせると40選手になる。

ただこれはあくまでテレビ画面で確認できた数にすぎない。

ときにタスキを渡した選手をカメラが追わないこともある。いまの勢いで進んだら、少し先ですっころんでるんじゃないかとおもうときでも、カメラは次に入ってくる選手をとらえていて、追わない。だから、40選手で全部ではなく、もう少しいるのではないか、とおもわれる。

1区終わりでは誰も倒れなかったが、2区終わりでは6人が倒れ込んだ

2021年は1区終わりには誰も倒れなかった。

今年の1区は超スローペースで展開し、2区につなぐときは、さほどの差がついていなかった。

だからだろう、倒れる選手はいなかった。

もっとも長いのは往路の2区、復路の9区である。だからこの区間終わりで、倒れる人が多くなる。

2021年は、2区終わりでは6人が倒れ、9区終わりでは8人が倒れていた。

やはりかなり厳しい区間のようである。

大学別では、20大学のうち、1人も倒れてなかったの(倒れた選手がテレビで確認できなかった大学)は2校だけだった。1つは青山学院大、もう1つは拓殖大である。

2010年代の王者だった青山学院の選手が誰も倒れこまないというのは、何だか納得する風景である。

選手が倒れられるのは「信じている仲間がいるから」である

見ていて気づかされるのは、倒れられるのは「信じている人がいるからだ」ということだ。

やがてチームメイトが助け起こしてくれ、運んでくれる。そう信じているから、ぐったりしていられる。横になってしまっても、何とかなるからだ。

倒れずに何とか歩いていても、チーム同僚が迎えにきてくれるとそこで仲間に身体をもたせかけて力を抜いてしまう選手を何度も見た。仲間は彼を倒しはしない。絶対に抱きかかえて受け止めてくれる。

そういう信頼がある。

それに気がつくと、見ているだけで心が熱くなる。

「きつかったー」と言いつつ笑顔でタオルを広げた仲間に両手を広げて近寄っていく選手もいた。

待っているのが同僚ではなく、恋人だったとしても不思議ではない風景である。

仲間の結びつきがすごく強い。

使命に生きる若者たちは、仲間をとても信頼している。そうでないと我が身を顧みず、使命に邁進できないのだろう。

見ていてひたすら気持ちがいい。

後続選手が近寄って「心中」のように並んで倒れる風景

あと「倒れる選手」ばかりを見続けていて、気がついたことがある。

ひとつは「先に選手が道路で倒れているとすぐあとに入ってきた選手も近くで倒れようとする」ということだ。

前に誰もいなければ、そのまま脇へ逸れていくことが多いのだが、近くに別大学の同区間の選手が倒れているのを見ると、安心してなのか、すぐ近くで倒れてしまうのだ。

近いタイムで中継所に入ってきたということは、そこまでかなり競り合っていたのだろう。競り合っていると中継所前でかなり無理してスパートすることが多く、タスキを渡すと倒れやすい。

前の選手が寝転がると、後続の選手も、ああ、とおもってなのかどうか、すぐ近くに寝転がろうとする。

もともと彼らには「後続の選手の邪魔になってはいけない」という強い意識があるようで、邪魔なものはまとまっていたほうがいいという感覚なのか、近よっていく。

1人が倒れたあと、すぐ入ってきた選手がふらふらと同じ方向へ動き、重なるように倒れたときは、心中にさえ見えた。

「心中立て」という古い言葉が似合いそうな不思議な情念が、箱根駅伝には漂っているようにおもう。

戦う男たちは後続を考えて棒のようにまっすぐに倒れる

また、彼らは、倒れるとき、なるべく小さく倒れようとしている。

武士の心得を見せられているようである。

まず、進行方向にまっすぐ倒れる。

道をふさぐように横になって倒れる選手はいない。

脇への逃げ道がないときにコース上に寝っ転がってしまうのだが、そのとき、自分の身をなるべく細くする。両手を身体に添え、つまり気をつけの姿勢で、そのままうつ伏せに倒れる。

苦しいときにそんな状態で倒れる人間はまずいない。

立っていられない状態でも、それでも自分の面積を細くして意識を失おうとしている。

まるで倒れゆく武士を見ているようである。

エンタメとしての人気と競技会としての評価

お正月でヒマだからといって、テレビで若者が倒れる姿を見たいわけではない。

でも「自分のためではなく、限界まで身体を使っている若者の一生懸命な姿」は見たい。

だから箱根駅伝は大人気である。

スポーツとしてより、「お正月用のエンタメ」として人気になっているとおもう。

日本人らしさを強く感じる正月休みに、日本人の心情を揺さぶってくる。

お正月にかなり適したエンタメなのである。

ただ、この関東ローカル大会が、大学生の長距離走大会の代表のようになっていることは、いくつか問題を抱えているようにも見える。

お正月用のエンタメでありながら、日本陸上界のためになれば一番いいとおもうのだが(つまり箱根駅伝があるから世界大会で活躍する選手が増えるという構造が一番いいのだが)、エンタメとスポーツがそうすんなり協力しあえるとはおもえない。

むずかしいところだろう。

お正月に見ていると、エンタメというより「お正月用の見世物」といったほうがぴったりくるような気がしてしまう。また来年もしっかり見てしまうとおもう。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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