『同じ下着を着る二人の女』は、ともに生理の血を流す母と娘 ――キム・セイン監督インタビュー
母親は時に自分を犠牲にしても、子供を守るもの。
映画『同じ下着を着るふたりの女』は、そんな「母親幻想」を持つ人からすれば衝撃的な事件から始まります。映画はいわゆる母娘問題を描いているのですが、それはさておき。最初にビックリするのは、何しろ「母と娘の下着の共有」。娘イジョンが生理で汚れた下着を洗う場面(そして母スギョンの「えええ~~!」という驚きの行動)からはじまる映画は、「下着の共有」から「女性全員が共有する生理について」「母娘がその場所でいまだにつながっていること」などを連想させます。タイトルが「同じ下着を着る”母と娘”」でなく”二人の女”であることもミソといっていいかもしれません。
――『同じ下着を着るふたりの女』というタイトルに、すごくびっくりしました。日本では「下着の共有」はあまり聞かないんですが、韓国では意外と普通なことですか?
キム・セイン監督:韓国でも人それぞれで一概には言えませんが、タイトルを決める時には、いろんな友達に聞いてみたんです。そうしたら「同じ下着をはくこともあるよ」という人もいれば、「誰かと共有なんて絶対にしたくない」という人もいました。「自分の下着が洗濯中で乾いていなかったら、他人の下着でもはいてもいい?」なんて質問もしたりしましたが、まあそれは「はいてもいいよ、はきたい」という答えを得たいための誘導質問でしたね(笑)。タイトルに「下着」という言葉を使ったのは、この映画が「内密な何か」について描きたいと思ったからです。この映画は母と娘のお話ですが、母娘関係って1つとして同じものはないですよね。ただ私の描きたかった母娘関係が「同じ下着を着る母と娘」の関係だったということだと思います。
――「内密な何か」というのは、どういうものでしょうか?
キム・セイン監督:短編映画を撮っていたころから、私は関係性の話を描いてきましたし、人間関係は人生の核だとも考えています。人間同士の複雑な感情、そういうものを描きたいと思っていました。昔から韓国では、母娘の関係はたやすい、仲が良いものだというふうに見せてきましたが、私はそうは思いません。そういうものが全てではないんです。友情もそうですよね。仲がよくても、お互いへの嫉妬のような醜い感情もある。いいものだけは見せたくない、心の奥で行き来するものを見せたい、そういうふうに思いました。
――映画を見ながら「下着の共有」から連想することを様々に考えました。監督自身は、「下着の共有」からどういうものを感じさせたいと考えていましたか?
キム・セイン監督:母と娘の問題は、同じ身体を持ち、社会的にも女性という同じ性を生きている、そういう部分から出てくる問題ではないかというふうにも考えています。これはある本で読んだのですが、女性は毎月の生理や、日常生活を営む社会の中で、常に「自分は女性である」ということを認識させられている、せざるをえない、と。これに対して男性は日常生活の中で「自分は男だ」と感じさせられることはそれほど多くはなく、その分だけ、少し楽に生きているというふうに、その本にありました。
そういう部分を映画の中で描こうと思い、「身体」をキーワードに、生理や下着のエピソード、後半にあるシャワーの場面などを盛り込んでゆきました。ただそれは理屈として完全に意図したものではなく、自然とそういうシーンが思い浮かんだんです。それは私自身が、日常の中で「自分は女性である」「女性の身体を持っている」と認識させられているからなんだと思います。
こうなってしまったのは、すべて母親のせいなのか?
映画が描くのは、母スギョンと娘イジョンの母一人子一人の家族。スギョンは娘の卒業式に一度も出たことがない、そしてそれをちっとも悪いと思っていない「不良母」。口癖のように「あんたさえいなければ」とのたまう彼女は、娘より派手な下着を身に着け、自由奔放で身勝手で、時に暴力さえも振るいます。「母親のくせに!」とつい言いたくなってしまうスギョンと、「娘がキレるのも無理ない」と思わせるイジョン。映画はある事件をきっかけに始まるぶつかり合いを描きますが、それでも「こうなってしまったのは、すべて母親のせいなのか?」と映画は問いかけます。
――作品を作ったきっかけを教えてください。
キム・セイン監督:この作品は2016年に韓国映画アカデミーを志願したときに、ポートフォリオとして提出した6つのシナリオの中の1本です。それを2020年にもう一度引っ張り出して、一か月くらいかけて練り直しました。私は自分がその時に囚われている感情を映画にしてきたのですが、最初のシナリオを書いたころは同居している母との関係があまりうまくいっていなかったんです。ですから母との愛憎が色濃く描かれていました。その後に独立して、精神的、物理的に距離ができたおかげで、母娘のバランスが上手くとれた今の形になりました。
――具体的にはどんなところが変わったんですか?
キム・セイン監督:最初に書いた時は葛藤が多かったんですよね。とにかく母が憎らしくて、そういう娘の感情を中心にしたシナリオになっていました。でもその後に、ある本に出会い、そこに「母親の気持ち」――自分が主人公になれる場所があることの喜びが描かれていたんですね。それを読んだら、お母さんを否定的に書いてはいけないんじゃないかという気持ちになったんです。自分のモヤモヤを解消するために、母の人物像や役割を非難するような方向でシナリオを描くのはよくないなと。
――もう少し詳しく教えてください。
キム・セイン監督:母と娘の問題は、社会的にはお母さんの責任が大きいと言われることが多いし、2人の間でおこったことはその2人の個別の問題であるかのように矮小化されがちです。そうなってしまうシステム自体をもう一度考え直してもらいたいと思いました。母親だけが加害者というわけではなく、母も娘も加害者であり被害者でもある、母親だけに責任を負わせてはいけない――そんなふうに思ったら、母娘という関係そのものを考えてもらえるような物語に変わっていきました。
映画を作る過程では、田房永子さんの『母がしんどい』『うちのっ母ってヘンですか?』といった本を、スタッフや俳優たちとみんなで回し読みしました。そして「母と娘の話というものは多いんだな。システムそのものを考えるべきという私の考えは、合っているんだな」といった確信も得ることができました。
「お母さんには、こういう言葉が必要だったんだ」と思った
売り言葉に買い言葉で別々の生活を始めた母娘。でもスギョンの言いたい放題な生活はイジョンの我慢によって、イジョンの生活力のなさはスギョンが働いているから成り立ってきたわけで、その共依存に慣れている二人の生活は、物理的に離れみただけでは上手くは回っていきません。
――あの母娘はすごく反発し合いながらも、すごくよく似ている気もしました。監督はどのようにお考えですか。
キム・セイン監督:自分の家族の一番嫌いな部分を、自分の中に発見することってありますよね。でも「一番嫌いな部分」がなぜ一番嫌いなのかといえば、その部分に注目しているから、つまりその部分を一番愛しているからなんじゃないかと思います。この映画は母と娘が激しくぶつかり合うので、母娘の憎しみを描いていると考える人もいるようですがそうではなく、結局は愛し合っているのだと思います。愛と憎しみは別物ではなく、愛しているから憎い。そういう部分を見せたいと思いました。
――個人的には、スギョンとその恋人のおじさん、ジョンヨルの関係がすごく好きでした。韓国ドラマでイケメンを見慣れているので、最初にジョンヨルを見たときは失礼ながら「ちんちくりんだなあ」と思ってしまったんですが、スギョンに対する優しさと愛情で、見終わった後には「なんてイケメンな!」と(笑)。
キム・セイン監督:演じてくれたヤン・フンジュさんに必ず伝えておきます。とても喜ぶと思います。キャスティングをした時に、外見やスタイリングというのはすごく考えました。ジョンヨルは優しくてすごくいいセリフしか言わない人物なので、見た目がカッコよすぎるとカッコつけみたいな感じ、詐欺みたいに見えてしまうかもと思ったんです。ヤンさんは演技のトーンが淡泊なので、逆にセリフに真心を感じさせられると思い、それでキャスティングをしました。
――二人がいちゃいちゃする場面は、すごく幸せな気持ちになりました。
キム・セイン監督:私も好きです。プールに行った帰りに、ジョンヨルが「プールの水は肌に悪い。スギョンの肌は綺麗だけど、やってあげたい」といいながら、スギョンの顔にクリームを塗ってあげるシーンがあるんです。あの台詞は泣きながら書きました。母親であるスギョンには、こういう言葉が大切だったんだな。こういう言葉が必要だったんだなと思います。
キム・セイン監督
1992年、韓国・インチョン生まれ。聖潔大学校演劇映画学部、韓国映画アカデミー(KAFA)で学ぶ。短編『Hamster』(2016)の全州国際映画祭出品を皮切りに、短編『Container』(2018)ではソウル独立映画祭(SIFF)で審査員賞を受賞するなど注目を集める。KAFAの卒業制作として製作された本作で長編デビュー。2021年釜山映画祭に出品し、ニューカレンツ賞、NETPAC賞など5つの部門で受賞。その後、同作はベルリン国際映画祭のパノラマ部門にも選出された。
5月13日よりシアターイメージフォーラムほかにて、全国順次
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