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今夏、高校選手権決勝が甲子園で行われる女子野球。先駆者・橘田恵が歩んできた道をたどる

上原伸一ノンフィクションライター
履正社高・女子野球部の橘田(きった)恵監督(写真提供 履正社高・女子野球部)

高校、大学と日本では不遇の時代を過ごす

今年、「全国高等学校女子硬式野球選手権大会」の決勝が、甲子園で行われる。男子の選手権大会の休養日にあたる8月22日、女子選手がついに「聖地」の土を踏む。

「まさか自分が生きている間に実現するとは…それくらいの驚きでもありました。女子野球選手にとっては、一言で語れないほどの大きな出来事だと思います」

履正社高・女子野球部を創設年(2014)より率いる橘田恵(きった・めぐみ)監督はそう語る。今春の選抜大会では準優勝に導いた橘田監督。指導者としての実績は輝かしい。履正社高女子の監督として、春は全国優勝1回で、夏の選手権では2度の準優勝を経験。2012年より指揮した履正社RECTOVENUS(レクトヴィーナス)では、13年の全日本女子硬式野球選手権大会で頂点に立った。

世界一にもなっている。17年から2年間、初の女性監督として、女子野球日本代表監督を兼務し、18年の「第8回WBSC 女子野球ワールドカップ」で前人未到の6連覇を果たす。また、前年の17年には「第1回BFA女子野球アジア大会」で優勝した。

履正社高・女子野球部の選手たちを指導する橘田監督(背番号57)(写真提供 履正社高・女子野球部)
履正社高・女子野球部の選手たちを指導する橘田監督(背番号57)(写真提供 履正社高・女子野球部)

選手時代は不遇だった。橘田監督は「高校、大学と、ずっと補欠でしたからね」と笑う。

小学時代は軟式、中学時代はソフトボールで鳴らした。小学1年で入った女子チーム「西神戸パワーズ」では全国大会準優勝。中学ではソフトボール部の中心選手だった。高校でそのままソフトボールを続ける選択肢もあったが、橘田監督はどうしても硬式を握りたかった。しかし、高校入学年当時(1998年)、女子硬式野球部があったのは全国で5校ほど。「兵庫から鹿児島の神村学園に行くことも考えた」が、悩んだ末に地元の公立校である小野高へ。女子は大会に出場できないのは承知の上だった。

わかってはいたものの、背番号を付けて公式戦に出る目標がない日々は辛かった。「1年生の時はやめることを何度も考えました」。それでも、“野球が好き”という思い、一度決めた覚悟を上回ることはなかった。そして2年生の夏休み、橘田監督は1週間、神村学園の練習に参加する。転校も視野に入れてのことだった。

「女子だけでプレーができたので、すごく楽しかったですね。すぐにでも転校したかったんですが、現状から逃げる気もして…結局、小野高で硬式を続けました」

ノックをする橘田監督。高校、大学の7年間で公式戦出場は1試合と不遇の時代を過ごした(写真提供 履正社高・女子野球部)
ノックをする橘田監督。高校、大学の7年間で公式戦出場は1試合と不遇の時代を過ごした(写真提供 履正社高・女子野球部)

神村学園では全力で野球に打ち込む同世代の女子選手たちと初めて出会うことに。寮で同室になったのは、その頃「女・松坂(大輔)」と異名をとっていた小林千紘(当時3年)だった。高校時代から女子硬式の日本代表に選ばれた小林は明治大に進学。2001年春のリーグ戦では、東大の竹本恵投手とともに先発して投げ合い、“東京六大学史上初の女性同士の対決”として注目を集めた。

「小林さんからもたくさん刺激をもらいました。東京六大学のリーグ戦で投げた時は私も仙台大の学生でして。実は『同じ女子の大学野球選手として感想を』と取材も受けたんですよ」

単身でオーストラリアに渡りMVPを獲得

仙台大に進学したのは「女子でも力があれば、リーグ戦に出られる可能性があったから」。ただし男子部員に練習で手加減されるようならやめようと心に決めていた。

公式戦出場は1年時にかなう。秋の新人戦1回戦に九番・二塁手で先発出場を果たしたのだ。仙台大が所属する仙台六大学リーグでは初のことだった。ゴロも処理し、ライトへのヒットも放ったが、これが高校と大学での7年間で、最初で最後の公式戦出場になった。

「選手では日の目は見なかったですからね。控え部員の気持ちはわかるつもりです」

履正社高・女子野球部は創部以来、1人も途中で退部していない。「学校と親御さんのサポートのおかげです」と言うが、それは橘田監督が控え部員にもしっかり目を向けているからだろう。

日本代表にも選手としては縁がなかった。高校時代に1度、大学では3年時、4年時と2度セレクションを受けるも、いずれも不合格に。最後にセレクションを受けたのは2004年。仙台大4年の6月だった。女子野球世界大会(現在のWBSC女子野球ワールドカップの前身)のメンバー入りを目指し、最終選考のシートノックでは二塁のライバルの片岡安祐美(茨城ゴールデンゴールズ監督兼選手、当時熊本商高3年)と懸命にボールを追ったが、日本代表には届かなかった。

落胆していた橘田監督に声をかけた選考委員がいた。「君のことを評価している。日本代表に入れなくてがっかりしていると思うが、海外でプレーしたらどうか」。この言葉が背中を押す。小学時代、アメリカの女子野球を描いた映画「プリティリーグ」を観て感化され、中学時代はアメリカで本格的な女子プロ野球リーグが誕生したことに心躍らせた。すでに海外でのプレーも経験していた。大学2年時はオーストラリアの、3年時はアメリカの大会に出場していたのだ。

セレクションに落ちた数か月後、橘田監督は単身でオーストラリアに渡り、日本人女子として初めて女子リーグの強豪チーム(スプリングバル・ライオンズ)で計2シーズンプレーする。卒業後の2005年シーズンは本場・アメリカと並び、女子野球世界最高峰のレベルといわれる現地の大会にも出場。全試合で一番・遊撃で起用され、打率6割の活躍でMVPを受賞した。

「MVPになった時、チームのみんなが私を胴上げしてくれたんです。世界大会などで日本チームが優勝した際に行っていたのを知っていた選手たちが、日本式で祝福してくれた。最大級の賛辞の表現だったのでしょう。今までやってきてよかったなと感激しましたね」

ビクトリア州代表の選手として、アメリカと並び女子世界最高峰といわれる全豪大会でプレーする橘田監督(2005年、写真提供 橘田恵)
ビクトリア州代表の選手として、アメリカと並び女子世界最高峰といわれる全豪大会でプレーする橘田監督(2005年、写真提供 橘田恵)

2005年の全豪大会では打率6割の活躍でMVPを獲得した(写真提供 橘田恵)
2005年の全豪大会では打率6割の活躍でMVPを獲得した(写真提供 橘田恵)

オーストラリアでは野球以外のことも学んだ。例えば、意志を伝える大切さ。日本には相手の気持ちを汲んで口にしないことが美徳とされる一面もあるが、海外では必ずしもそうではない。

「ホームステイ先でしばらく、炭酸入りのオレンジジュースを出してくれたことがありました。私、オレンジジュースは好きなんですが、炭酸入りは苦手で…でもせっかく出してくれるので我慢していたのですが、ある時、実は…と伝えたら、『ごめんなさい。気が付かなくて』とすぐに(炭酸の入っていない)オレンジジュースを出してくれました。些細なことでも言葉にしなければ、自分の気持ちは伝わらない。これは今の指導でも活かされています」

2シーズン過ごしたオーストラリアでの経験が橘田監督のその後の野球人生を切り拓くことに(写真提供 橘田恵)
2シーズン過ごしたオーストラリアでの経験が橘田監督のその後の野球人生を切り拓くことに(写真提供 橘田恵)

日本代表のセレクションに落ちたから今がある

オーストラリアで2シーズン過ごした経験は、その後の人生を変えた。橘田監督はワールドカップなど国際大会を運営するWBSC(世界野球ソフトボール連盟)で、世界で9人しかいない技術委員を束ねる技術委員長の要職にある(アジア女性としては初)。これも世界の野球を知っていることが選出につながったのは間違いない。

それにしても運命とはわからない。もし大学3年時の日本代表のセレクションに受かっていたら…

「そこで野球には区切りをつけていたかもしれませんね。今の私はなかったでしょうね。当時は野球を仕事にできるなんて思ってもいなかったですし」

橘田監督はオーストラリアから帰国すると指導者の道へ。花咲徳栄高では2年間コーチを、南九州短大では在任した4年間でコーチ、監督を務めた。橘田監督によると、教えながら自らも鹿屋体育大の大学院で学んだ南九州短大時代が、指導者としてのベースを作ってくれたという。

「それまでは自分の経験を物差しにしていました。ですが、南九州短大ではそもそも野球の基本的なことがわからない初心者が少なくなかった。そういう子たちにどうすればこちらの意図が伝わるか…色々なアプローチをする中で、引き出しを増やしていきました。大学院では野球以外の競技の出身者から、野球につながるヒントをたくさんもらいました」

橘田監督(背番号57)は些細なことでも必ず言葉で選手に伝えるようにしている(写真提供 履正社高・女子野球部)
橘田監督(背番号57)は些細なことでも必ず言葉で選手に伝えるようにしている(写真提供 履正社高・女子野球部)

今年4月現在、全国高等学校女子硬式野球連盟に加盟しているのは39校プラス1チーム。加盟準備校は10校ある。橘田監督の高校時代に比べると、その数は約8倍になった。男子の競技人口は減っているが、女子は着実に増えている。国内にプロリーグが誕生するなど、女子硬式野球を取り巻く環境も大きく変わった。

とはいえ、加盟校はまだ男子の約100分の1。発展途上にあるのは変わりがない。女子が高校で硬式野球をしたいと思っても、地元ではなかなかできないのが現状だ。履正社高にも、硬式ボールを握りたいと、北は青森、南は沖縄と全国から集まって来る。55人いる部員のうち、13人が下宿生活を送っているという。

橘田監督は「13人の子はもちろん、ウチの部員、いや、全国の女子硬式の部員はみな、覚悟を決めて野球をしている子ばかりだと思います」と話す。そしてこう続けた。

「そもそも女子が硬式野球をするのは、いばらの道ですからね。まあ、普通ではないですよ(笑)。それでもあえてその道を選んだ。そういう子たちだからこそ、女子野球の歴史や世界を変えていく力があると思うし、変えていってほしい。競技人口が少ない分、1人ひとりが担っている使命も大きいと、ウチの生徒にもよく言ってます」

今夏、橘田監督ら先駆者の後を追ってきた選手たちがいよいよ甲子園に立つ。

「女子野球がどんなものか、全くわからない人も多いはず。そういう人にもファンになってもらえるプレーをしてくれたら。このチャンスをこれからの女子野球の発展につなげたいですね」

履正社高は夏の選手権では準優勝2度。1人の監督としてはむろん、初の夏制覇を目指す。

橘田監督を中心に円陣を組む履正社高・女子野球部の選手たち。みな覚悟を決めて硬式野球に取り組んでいる(写真提供 履正社高・女子野球部)
橘田監督を中心に円陣を組む履正社高・女子野球部の選手たち。みな覚悟を決めて硬式野球に取り組んでいる(写真提供 履正社高・女子野球部)

 履正社高・女子野球部はこれまで春の選抜では1度優勝を果たしているが、夏の選手権では準優勝が2度。今夏は聖地・甲子園で初優勝を果たすつもりだ(写真提供 履正社高・女子野球部)
 履正社高・女子野球部はこれまで春の選抜では1度優勝を果たしているが、夏の選手権では準優勝が2度。今夏は聖地・甲子園で初優勝を果たすつもりだ(写真提供 履正社高・女子野球部)

ノンフィクションライター

Shinichi Uehara/1962年東京生まれ。外資系スポーツメーカーに8年間在籍後、PR代理店を経て、2001年からフリーランスのライターになる。これまで活動のメインとする野球では、アマチュア野球のカテゴリーを幅広く取材。現在はベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」、「大学野球」、「高校野球マガジン」などの専門誌の他、Webメディアでは朝日新聞「4years.」、「NumberWeb」、「スポーツナビ」、「現代ビジネス」などに寄稿している。

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