家康伊賀越えに活躍した蓑笠之助と富士山の噴火
堺を遊覧中に本能寺の変を聞いた家康は、危険な伊賀越えを敢行して本拠地三河に戻った。そのルートについては諸説あるが、「どうする家康」では主な3ルートを分かれて進んだという新しい解釈になっていた。
また、ドラマには登場しなかったが、この際に家康は家臣に対してユニークな名前を与えている。
家康と名字
家康は、三方ヶ原合戦で武田軍に完敗した際にも、逃げる途中で粥を振舞ってくれた農民に「小粥」という名字を与えている。
絶体絶命のピンチを救ってくれた相手には褒美を出すのは当然だが、なにしろ危機の最中には与える褒美などは持っていない。「後で渡す」というのも口約束に終わりかねないので、その場ですぐに与えることのできる褒美として名字は有効だった。
伊賀越えを援けた家臣
天正10年(1582)6月、家康が織田信長の招きで京に上ったあと、わずかな家臣のみを連れて堺見物をしていたときに本能寺の変が起きた。
一刻も早く自分の所領に戻りたいが、信長が討たれたため、畿内は領主のいない土地になってしまっている。いわば、家康は手勢を率いずに敵地の中にいる落ち武者のようなものだ。戦国時代の農民は積極的に落ち武者狩をするため、危険極まりない状態である。
こうした全面敵だらけの中、山城・近江・伊賀・伊勢を通って本領の三河まで逃げ延びる際、随行していた家臣の服部正尚が家康の変装用にと蓑と笠を調達してきた。このとき、家康は服部正尚に対する褒美として、名字だけではなく「蓑笠之助」というフルネームを与えている。
殿様から拝領した名前は名誉なものであり、蓑家では以後代々笠之助を名乗ることになった。
蓑笠之助の子孫
さて、蓑笠之助の子孫はこの後思わぬところで活躍することになる。
『寛政重修諸家譜』によると、蓑家の子孫は徳川家に仕えていたが、大久保長安事件に連座して知行を削られ、名字も「巳野」に変えて宝生座猿楽師をつとめていた。その後、正高の時に治水事業で知られた田中丘隅のもとで働いて認められ、丘隅の娘を娶っている。そして、大岡忠相(越前守)によって代官に取り立てられ、旗本蓑家を再興した。
宝永4年(1707)に富士山が噴火した際には、関東南部一帯に灰が降り、神奈川県山北町では80~90cmの降灰があったという。翌年には大雨によって大量の火山灰が酒匂川に流入して堤が決壊するなど二次被害も多く出ている。
こうした状況の中、幕府の代官として酒匂川の治水にあたったのが、足柄の代官をつとめる蓑笠之助正高であった。正高は相模川の堤を以前より1.8m高く造り直し、この堤は以後22年間決壊することはなかったという。