高校野球「連合チーム」のリアル。3校をまとめた主将が明かす難しさと持ち続けたプライド
単独チームで勝った喜びは格別だった
今夏の甲子園大会に出場した学校の中で、部員が100名以上のところは10校あった。(ちなみに最多は八戸学院光星高と広陵高の151人で、最少は英明高の42人)
たとえ在学中にメンバー入りは叶わなくても、人数が多い名門や強豪で勝負をしたい、そこでやりたい、という高校生は多いようだ。
一方で、部員不足に悩んでいる学校も少なくない。なかには3学年合わせても9人揃わないという高校もある。日本高校野球連盟(日本高野連)は、このようなチームにも出場機会を与えようと、2012年夏の選手権地方大会から、部員8人以下の高校による「連合チーム」の公式戦出場を認めた(それまでは統廃合を控えた場合に限って「連合チーム」は認められていた)。
とはいえ、複数の学校が集まって結成する連合チームは、難しさもある。昨秋、今春、今夏と3季、浅草・科学技術・深川の3校による連合チームの主将を務めた都立深川高の谷坂倫太郎(3年)は、次のように振り返る。
「一番の難しさは学校によって、あるいは選手によって、高校野球に対する姿勢が違うことです。連合チームとして『公式戦2勝』を目標に掲げましたが、そこまでの思いを持っていない選手もいて、なかなかチームが1つにまとまりませんでした」
谷坂は中学時代、都大会で準優勝したこともある軟式クラブチームでプレーしていた。チームには強豪校に進んだ先輩もいたが、谷坂が選んだのは部員数が少なく、長方形の校庭グラウンドをテニス部とサッカー部との3部で共有する深川高だった。
「もともと、野球で学校を選択するのではなく、受験で受かった高校で硬式野球をしようと決めていました。真剣に高校野球をしたいとは思ってましたが、強豪で3年間1度も公式戦に出場できないよりも、1年生から試合に出たいと」
谷坂が入部した時、深川高は10人の部員がおり、1年夏は単独チームで東東京大会に出場した。ところが3年生が抜けると、9人揃わなくなり、葛西南、つばさ総合、聖学院の3校と連合チームを組むことに。「連合になるのか…と、はじめはかなり戸惑いがありました」(谷坂)。それでも上級生主体のチームだったなか、他校の先輩も優しく、導かれながら、1年秋、2年春は連合チームの一員としてプレーした。
2年夏は1年生部員が加わり、単独チームとして東東京大会に出場。3倍ほどの部員がいる私学相手に勝つこともできた。「深川単独での1勝は格別でした」。だが、そんな喜びも束の間、秋はまた連合チームを結成することになった。
「1年生の時とは違って、3年生が抜けたら、連合になる覚悟はしてました」
ただし、今度は自分が主将として引っ張っていかなければならない。前年は先輩が主体だったが、新たな連合チームはほぼ下級生だった。
お互いを認め合うことで溝が埋まる
「公式戦2勝」に向けて、谷坂は週に2回、土日に校庭が広い科学技術高で行われていた「連合」の練習で先頭に立った。学校は違っても心は1つにしようと、他校の選手とも積極的にコミュニケーションを重ねたという。
だが、前述の通り、個々のやる気には温度差があり、楽しく野球がやれればいい、と考えている選手が何人もいた。ブロック大会で初戦敗退だった秋が終わり、冬場に差し掛かっても状況は変わらず、谷坂は人知れず苦しんだ。
「正直なところ、連合の練習に行くのが精神的にしんどくなってました。野球が好き、という気持ちは変わらなかったんですが…」
この頃のチームの様子をマネージャーの石川未怜(3年)はこう見ていた。
「違いは練習のメニューとメニューの間にも表れていました。連合チームの練習時間を1分でも無駄にしまいとすぐに動き出す選手もいれば、そんなに慌てなくても…という感じでゆっくり休んでいる選手もいたんです」
石川は深川高のマネージャーで、主将の谷坂とは部の「同期」。小、中は吹奏楽部に在籍していたが、支える仕事をすることで高校野球に関わりたいと、マネージャーを志願したという。
ようやくベクトルが1つになり始めたのは、連合チームが結成されて半年が経った今年の1月。きっかけはこの月を「ポジティブ月間」としたことだった。深川高の監督で、連合チームも率いる間宮康介監督の発案で、練習の始めと終わりに2人が組になって、互いのいいところを30秒ずつ交代でほめ合う、という取り組みをしたのだ。
「30秒ずつですが、毎日2人ほめるには、その選手をしっかり見ておかなければなりません。『ポジティブ月間』によって、それまで見えなかったところも見えるようになりましたし、気付きもありました。『ポジティブ月間』が終わっても、しっかり他の選手を見るようになりました」(谷坂)
女子マネージャーも参加した。石川は「他校の選手から『ミーティング中にきちんとメモを取っている』とか『いろいろなことにすぐに気が付く』と言ってもらえて嬉しかったですし、モチベーションが高まりました」と話す。
ほめ合うことは認め合うことである。互いにポジティブな感情を持つことで、相手の気持ちを尊重するようになり、それがチームにあった溝を埋めていった。
「ポジティブ月間」の成果は、試合後の反省会でも発揮されたようだ。
「春もブロック大会の初戦負けで、練習試合でもあまり勝てなかったのですが、敗因は指摘し合いつつも、負けた中でも良かった点を探して言い合いました。負ければ、どうしてもネガティブな気持ちになりますから、それを持ち越さないようにしたんです」(谷坂)
浅草・科学技術・深川の3校による連合チームは、夏の東東京大会で念願の1勝を挙げる。次戦では1点差で惜敗し、目標である「公式戦2勝」は達成できなかったが、谷坂にとってこの1勝は、2年夏に深川単独チームで味わった1勝よりも嬉しかったという。
「高校野球に打ち込んだ2年半が報われた気がしました」
環境のせいにしても始まらない
谷坂は小学時代、今夏の八戸学院光星高の主将だった中澤恒貴(3年)と同じチームだった。ドラフト候補でもある中澤とは小学当時から仲が良く、中澤が甲子園大会を終えて地元に帰って来た時は旧交を温めたという。
「甲子園に中澤の試合を観にも行ったんです。彼は小学生の時から1人ずば抜けてましたが、甲子園に出ている学校は、自分たちとは次元が違う高校野球をしていると感じました」
小学校時代の野球仲間は期せずして、1人は連合チームの主将となり、もう1人は今夏の甲子園出場校としては最多部員を束ねる主将になった。谷坂は「中澤のほうが僕より大変だったと思います」と口にするが、連合チームの主将としてのプライドはずっと持ち続けていた。
「たとえ実力的には劣っていても、連合だから仕方ないよね、ではなく、連合でも勝ちたかったですし、連合なのにすごい、というチームにしたかった。ずっとその思いはありましたね」
谷坂と石川は高校野球引退後、高校野球を通して成し遂げたことなどを、オンラインで発表する「スポーツ庁後援 高校野球プレゼンテーション大会2023」に参加した。https://koshien-spirits.com/
2人のプレゼンを大会のコメンテーターとして視聴していた1人が、30年にわたって監督を務めた浦和学院高を春・夏通算21回甲子園に導き、2013年春の選抜大会では全国制覇を成し遂げた森士氏(現・浦和学院高 副校長、NPO法人ファイアーレッズメディカルスポーツクラブ理事長)だった。
森氏はコメントを求められると、こう述べた。
「自分が指導してきた高校野球とはある意味、真逆。でも、恵まれない環境の中で、(連合チームとして)高校野球に取り組んできた様子を伝えてもらって、心の豊かさという点ではどちらがあるのか…と考えさせられました」
石川は環境に恵まれていなかったからこそ、得るものがあったという。
「グラウンドが狭くても人数が少なくても、工夫をすればできると、学ぶことができました。環境のせいにしても始まらないので…いつもどうすれば、どうやってと、考える習慣が身に付いたので、社会に出た時も、何かのせいにはしないと思います」
高校野球にはチームの数だけ、形がある。その全てが高校野球である。
深川高は今秋も連合チームを構成する1校として大会に出場した―。
(文中、敬称略)