【その後の鎌倉殿の13人】北条泰時のお悩み相談に大江広元はどう答えたか?
貞応3年(1224)6月、北条義時が死去したことを受けて、嫡男の北条泰時は都から鎌倉に帰ります。鎌倉入りした泰時が面会したのが、伯母の北条政子でした。政子は泰時に、義時亡き後の指導者として、政治を行うように伝えます。
が、泰時は、後々のことを考えると政子のこの決定は早過ぎるのではないかと心中、不安に思っていました。そんな悩みを持つ泰時が、相談したのが、政所別当などを務めた幕府の重鎮・大江広元でした。
6月28日、泰時の想いを聞いた広元は、次のように答えます。「いやいや、尼御台(政子)の決定は、遅れて、今日になってしまったくらいです。それでも遅いくらいです。義時殿の死により、世の中が落ち着きません。そのような時は、人々は何かと疑いを持つもの。ですので、早く決めるべきことは、早く決めてしまった方が良いのです」と。
鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』には、広元の回答に接した泰時の言葉は記されていません。しかし、広元の言葉を聞いて(それならば)と、父の跡を継ぐ覚悟を決めたのではないでしょうか。
義時の後継執権は泰時に決定!一件落着!と思いきや『吾妻鏡』にはそれを黙認できぬ勢力が既に動き始めていたことが記されています。
果たして、それは何者か?そして、泰時の運命はどうなっていくのでしょうか。