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【その後の鎌倉殿の13人】北条政子死す!尼将軍はどのように亡くなったのか?

濱田浩一郎歴史家・作家

嘉禄元年(1225)5月下旬、北条政子は病に倒れました。陰陽師による祈祷の甲斐なく、病状は悪化する一方でした。もちろん、陰陽師による祈祷ばかりに依存していたのではありません。

医師による診察も行われました。同年7月5日の夜には、医師・和気定基が治療のため、政子のもとを訪問しています。普段は、丹波頼経という医師が診察していたのですが、政子の容態は悪くなるばかりであり、最早、手に負えないということで、丹波頼経は診療を辞退してしまったのです。そこで代わりにやって来たのが、和気定基ということです。

しかし、医師が交代しても、政子の病は良くなりませんでした。7月8日には、危篤状態となり「東御所」に移ったと『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)には記されています。

そしてついに、7月11日、北条政子は息を引き取ります。『吾妻鏡』は政子のことを「二位(政子)が亡くなった。御年69。前の大将軍(源頼朝)の奥方であり、二代(源頼家・源実朝)将軍の母である」と記します。

その上で、前漢(中国古代の王朝。劉邦が建国)の呂后(劉邦の妻。前漢2代皇帝・恵帝の生母)と同じように「天下」を「執行」(政治を行った)と記載。

また、政子は、神功皇后(仲哀天皇の皇后。応神天皇の生母。いわゆる三韓征伐で有名)の「再生」(生まれ変わり)であり、我が国の皇室を守護したと『吾妻鏡』は絶賛します。

政子自身は自らのことを「神功皇后の生まれ変わり」などとは思ってもいなかったでしょうから『吾妻鏡』のこの評価を聞いたら、さぞや、驚いたことでしょう。驚くばかりか、そのようなことは恐れ多い、書き直してと修正を迫ったかもしれません。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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