怪人だらけのドラマ『M 愛すべき人がいて』──その面白さと不可解さが示すテレビと音楽業界の現在地
主人公たち以外、全員怪人
今週土曜日、ドラマ『M 愛すべき人がいて』(テレビ朝日・ABEMA)が、最終回を迎える。浜崎あゆみの自伝をもとにしたこの作品は、昭和の大映ドラマを彷彿とさせる奇っ怪な内容によって視聴率以上に注目され続けている。
主人公たち以外、全員怪人──この制作意図が貫徹され、視聴者に十分受け取られている点において、作品としての完成度はとても高い。しかし、その一方で最盛期だった90年代後半の音楽業界を奇っ怪に描いてしまうことへの不可解さもぬぐえない。
面白さと違和感が常に同居するこのドラマは、いったいなにを意味しているのか。
まるでのモンスターの礼香
『M』の舞台は90年代後半。歌手を夢見る少女・アユ(安斉かれん)と、彼女をプロデュースするレコード会社の専務・マサ(三浦翔平)を中心とする物語だ。無論のことそれは浜崎あゆみのプロフィールと重なり、作中で使用されるのも実際の楽曲だ。物語は、歌手として成功していくアユとマサとの恋の進展を軸に進んでいく。
だが、この作品が大きな注目を集めたのは、このふたりを引っ掻き回す奇っ怪なキャラクターたちだ。その代表は、やはり田中みな実演じるマサの秘書・姫野礼香だろう。ある事情によって隻眼となった彼女は、ふたりの関係に嫉妬して狂気に満ちた言動を繰り返す。純粋なアユと野心あふれるマサの物語に不気味に登場し、嵐を巻き起こしていく。
その存在感はコメディリリーフというより、もはやサイコホラーのモンスターに近い。たとえば第6話では、アユとマサが同棲している家に忍び込み、仲良く帰宅したふたりを待ち受け、シンバルを叩きながら絶叫する。
「許さな~い vs 許さな~い。どっちの『許さない』が勝つのかなー!?」
その直後には雷鳴がとどろくオマケ付きだ。
このように、田中みな実の異常な演技によって礼香は回を追うごとに最長不倒を更新し、視聴者を爆笑の渦に巻き落としていく。アユとマサは、常に唖然とした表情で彼女を見届けるばかりだ。主人公ふたりを数倍上回る光を放つこのキャラクターは、もちろん意図的なものだ。
半笑いを誘う大映ドラマ的方法論
礼香以外にも、このドラマには強烈なキャラクターが複数登場する。
たとえばアユがニューヨークで歌唱とダンスを教わるカリスマトレーナー・天馬まゆみ(水野美紀)は、いまのところ第2話のみの登場だが大きな爪痕を残した。派手な格好でルー大柴のように英語混じりの日本語を話す彼女は、常にハイテンションでなにかあれば怒鳴り上げて、ときにはアユにバケツの水をぶっかける。怪人ではあるが、なにかをキメてる雰囲気だ。
レコード会社・A VICTORYの大浜社長(高嶋政伸)も、かなりヤバい。マサと対立して、アユと同日にデビューするガールズグループをCDを自社買いしてまで勝たせてしまう。企業としての利益追求など関係なく、常に自身のメンツしか考えずに感情で行動する。その精神年齢は、社長というよりも小学5年生レベルだ。
もちろんこれらのキャラクター像は、制作側の意図通りだ。多くのひとが指摘するように、こうした演出や展開は昭和期の大映ドラマを倣っている。
『スチュワーデス物語』(1983-84年)や『不良少女とよばれて』(1984年)などのヒット作を生み出した大映ドラマは、不幸な生い立ちの主人公が艱難辛苦を乗り越えていくタイプの物語が多かった(この点も『M』と共通する)。だが、それ以上に過剰な演出や奇っ怪な登場人物、意味不明の展開が注目された。
たとえば、筆者が個人的に記憶するのは宮沢りえ主演の『スワンの涙』(1989年)だ。これはシンクロナイズドスイミングの選手を描いていたものの、なぜか最後はライバルとのディスコにおけるサドンデスのダンス対決で幕を閉じた。
ケチャップとマヨネーズとハバネロソースをミックスさせたようなめちゃくちゃかつ濃厚な味付けと、ツッコミどころ満載の謎展開──視聴者は、半笑いになりながらもドラマから目が離せなくなる。『M』は間違いなくこの大映ドラマ的方法論を踏襲している。
加えてそこで制作サイドが意図していたのは、この演出とSNSのシナジー効果だ。SNSでドラマへのツッコミがされればされるほど、視聴率も上昇していくことだ。
ただし、その目論見はかならずしも想定どおりとはいかなかったようだ。コロナ禍でのステイホームの有利さはあったものの、視聴率は5%前後で推移するにとどまっている。テレビ朝日の服部宣之プロデューサーは、「これだけバズっても世帯視聴率とは乖離している」(『ORICON NEWS』2020年6月27日)と、SNSと放送のギャップを痛感しているようだ。
ネタ化された音楽業界の最盛期
こうした注目点が多い一方で、看過できないところもある。結局、このドラマにはネタ的な面白さしかないことだ。直球ではなく、あくまでも変化球。もちろんそれでも良いのかもしれないが、しかし題材となっているのは、約20年前の最盛期だった日本の音楽業界だ。それはあまりにも不可解な姿勢だ。
浜崎あゆみがデビューした1998年とは、日本の音楽産業がピークを迎えていた頃だ。この年、総生産金額は過去最高の6085億円を記録した。小室プロデュースは一段落したものの、GLAY、SMAP、L'Arc~en~Ciel、Every Little Thingなどが大ヒットを連発し、宇多田ヒカルや椎名林檎、aiko、MISIAもデビューした年だ。その活況は、音楽的な広がり(多様性)ももたらしていた。
しかし、このドラマはその時代をネタとして描いている。アユやそのライバルグループの周囲で多額の金銭が飛び交い、成金的な生活スタイルのこれ見よがしの描写は、産業的な活況をバブルのごとく空疎なものとして捉えている。A VICTORYのマサや大浜社長も、レコード会社のプロデューサーというよりもまるでバブル期の山師的な投資家のようだ。
こうした描写の一方で等閑視されているのは、音楽そのものだ。なぜアユの楽曲はああなったのか、そこで彼女がファンに伝えていったことはなにか──それはしっかりと描かれない。プロデューサーのマサが積まれたMD(ミニディスク)をえんえん聴いて合う曲を探していくシーンは描かれるが、きわめて恣意的な作業にしか見えない。
このドラマで強く受ける違和感は、最盛期だったあの時代や音楽に対するこうした雑な向き合い方に起因する。1998年という日本の音楽業界にとって無視できないあの時期を正面から捉えず、結局ネタとして描写している。そこに過去を批評的にアップデートしようとする姿勢はまったく見られない。
このドラマを半笑いで楽しみながら同時に受ける不可解さは、このような題材と方法論のギャップにある。
輝かしい過去と懐かしい方法論
『M 愛すべき人がいて』は、90年代後半を昭和の方法論で2020年に送り出している。この極めてねじれた構造が、あの奇っ怪な面白さと不可解さを醸し出している。しかし、結局は輝かしい過去と懐かしい方法論に頼っている以上、それは現在の日本のポップカルチャーやエンタテインメントの停滞を表しているに過ぎない。そこに外部性は見えず、ノスタルジーを照れ笑い混じりで描いている以上のものにはなっていないからだ。
現実に目を向ければ、この20年間、一貫して日本のひとびとを魅了し、拡大を続けてきたのは韓国のエンタテインメントだ。ドラマでは、『冬のソナタ』以降も地道に人気を継続し、現在は『愛の不時着』や『梨泰院クラス』が常にNetflixでランクインしている。K-POPでは東方神起、少女時代、KARA、BTS、TWICE、BLACKPINK、IZ*ONEと、途絶えることなくその人気を拡大してきた。
加えて最近は、文化や言語が近い日本でのローカルプロダクション(現地制作)にも積極的に乗り出している。M-netは吉本興業と組んで男性グループ・JO1を、JYPエンターテイメントはソニーミュージックと組んでNiziUを生み出したばかりだ。K-POPはネタに走ることなく一貫してベタに(実直に)音楽を追求し、たとえアイドルであっても真摯に制作を続けている。結果、いまやアジアだけでなく世界的にも大人気だ。
こうした韓国の勢いと比較すると、このドラマはなんとも古い価値観に囚われている。なによりそれが、四半世紀前に業界に新風を呼び込んだavexを描いていることも切ない。結局、『M 愛すべき人がいて』の面白さと不可解さとは、日本のテレビと音楽業界の限界を意味している。そこにはもはや寂寥感すら漂っている。