「鎌倉殿の13人」で活躍する畠山重忠と、現在の畠山さんの関係
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で初回から重要人物として登場している畠山重忠。中川大志演じる重忠は現在メジャーな名字である「畠山」さんの祖にあたる。重忠は桓武平氏の武士で、もともとは秩父一帯を支配していた秩父氏の出である。
畠山氏のルーツ
秩父重綱の長男重弘は秩父氏の家督を継がず、その子重能が武蔵国男衾郡畠山荘(現在の埼玉県深谷市・熊谷市付近)を開発して自ら領主となり、畠山庄司と称したのが畠山氏の祖。
現在、ルーツの地である深谷市畠山の畠山重忠館跡は公園として整備され、公園内には重忠とその家臣の墓といわれる五輪塔や、「重忠産湯の井戸」と伝えられる井戸がある。
重忠は頼朝が挙兵した際には平家の討伐軍として出陣、頼朝方の三浦一族の本拠地衣笠城を落城させた。
重忠の活躍
その後、頼朝が房総半島から北上すると武蔵国で頼朝に臣従、一の谷合戦や奥州合戦で活躍した。ドラマでは取り上げられなかったが、『平家物語』によると宇治川の戦では馬で渡れる浅瀬を調べたり、烏帽子子(えぼしご,元服の際に名付け親となる)の大串次郎重親が溺れかけると、これを対岸に投げ上げて助けたりといった活躍をみせている。
また『源平盛衰記』によると、一の谷合戦の際に鵯越(ひよどりごえ)で馬を背負って崖を駆け下りたという。この逸話は有名で、畠山史跡公園には馬を背負った重忠の銅像が立てられている。
当時の馬は現在のサラブレッドとは違って小さく、体高は120~140cm前後だったというが、それでも体重は300kgほどはあったといい、さすがに背負って駆け下りるのは無理だろう。
文治元年(1185)秩父一族の河越重頼が、娘の郷(ドラマでは里)が義経の正妻であったために連座して失脚。重忠は、重頼のつとめていた武蔵国留守所惣検校職を継承、さらに北条時政の娘を娶り、鎌倉幕府成立後には幕府の有力御家人となって比企郡菅谷(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)に住んだ。
畠山氏のその後
では、現在の「畠山」さんは重忠の末裔かというと、そういうわけでもない。というのも、この後畠山氏は大きな変貌をとげるからだ。
以下ネタバレとなるが、頼朝没後、重忠は武蔵国の支配をめぐって北条氏と対立する。そして、重忠の嫡男重保が北条時政によって謀叛の疑いをかけられ、その意を受けた三浦義村や安達景盛らによって討たれて一族が滅亡した(畠山重忠の乱)。
畠山一族の滅亡後、北条時政の娘である重忠の妻は、清和源氏の名門足利義兼の子義純と再婚した。
義純は畠山氏の旧領をそのまま領すと、さらに名字も「畠山」に変えてしまう。以後、足利一族の畠山氏が鎌倉幕府の御家人として活動した。
そして、足利尊氏が室町幕府を開くと、畠山氏はその一門として幕府の最高役職である管領に就任、室町時代を代表する名門武家となった。以来一族は次々と分家を出して各地に広がり、「畠山」はメジャーな名字となっていった。
従って、「畠山」の祖は桓武平氏だが、現在の「畠山」は源氏系の子孫が多いとみられ、東北と関東南部に集中している。