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鎌倉幕府の執権・北条泰時は深夜に突如参集した数百騎の武者をどのように解散させたのか

濱田浩一郎歴史家・作家

寛喜2年(1230)2月30日の深夜。「俄に鎌倉中、騒動す」(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)という状況となります。旗を掲げ、甲冑を着た武者どもが、鎌倉幕府の御所や、幕府執権・北条泰時の屋敷の門前に競い集まったのです。この物騒な状態を泰時らは制止、鎮めようとしたようですが、何しろ、武者の数は「数百騎」にまで達しているので、容易に沈静化しません。徒らに時間ばかりが過ぎていきます。そうした現況を見て、北条泰時は言いました。「今回の御所辺りの騒動は、甚だ穏やかではない。世上(世間)における狼藉は、このような時にこそ、起こりやすいものだ。冷静に振る舞うべきだ」と。

暫くして、北条家の家人である尾藤景綱・平盛綱・諏訪盛重たちは、家来を引き連れて、門外へ出て行きます。そして、「謀反人がいるぞ」と叫びながら、浜へ馳せ向かいます。これは、泰時の命令に従ったもののようです。すると、不穏な動きを見せていた数百騎の武者も、前述の3人の後を追い、稲瀬川に到着しました。そこで、尾藤景綱らは、数百騎の武者に向かって言います。「ここに叛逆の輩はいない。此度のことは、御所辺りの騒動を鎮めるためのもの。命令もないのに、旗を掲げ、馳せ集まるとは何事か。もし、お前たちに野心がないのなら、夜でもあるので、旗を差し出せ。これは武州(泰時)の仰せである」と。これをもって、老武者20数人が旗を差し出したとのこと。その後、数百騎の軍勢も解散しました。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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