黒田博樹の5万球──広島カープ・黒田が200勝を達成するまで
ここまでの50,453球
7月23日、広島東洋カープの黒田博樹投手が、広島での阪神タイガース戦で日米通算200勝を達成した。史上26人目、カープ出身の選手では北別府学と江夏豊以来3人目の快挙だ。
それは、なんとも黒田らしい見事なピッチングでの達成だった。7回115球を投げ、5安打3四球、無失点。幾度も先頭打者を出しランナーを背負うことが多かったものの、要所で三振を奪い取った。黒田の試合では湿りがちだった打線も、早い回から爆発し3回までで7得点をあげた。十分すぎるほどの援護点だった。
この黒田の200勝は、カープファンにとってはやはりとても感慨深い。もちろんそれは15年にメジャーリーグの高額オファーを蹴って復帰したからだ。復帰した1年半前、黒田はある重い言葉を発した。
黒田本人も認めるように、41歳という年齢を考えると、現役生活が長くないことはファンもわかっている。「一球の重み」は、そんななかで発せられた言葉だった。いまはファンも黒田の一球一球を噛みしめながら、観戦している。
1997年の入団からちょうど20年目の今シーズン、黒田の投球数は5万球に超えた。騒がれることのないその記録は、6月17日のオリックスとの交流戦で達成された。黒田に勝ちはつかなかったものの、鈴木誠也が延長12回にサヨナラホームランを打ったあの日である。その後も黒田は投げ続け、200勝を達成したこの試合で50,453球に達した。通算200勝は、この約5万球によって積み上げた大記録だ──。
1997~2007年:低迷するカープで
黒田の200勝がファンにとって感慨深いのは、必ずしも早い段階から大活躍していたわけではないからだ。
入団してから3年ほどの黒田は、期待されながらもパッとしない成績だった。当時のカープは、後に2000本安打を達成する野村、前田、金本に、江藤と緒方を揃えたリーグ屈指の強力打線だったが、投手陣は佐々岡以外に安定した成績を続ける選手は少なかった。山内泰幸や澤崎俊和、小林幹英、ロビンソン・チェコといった若手投手は、故障に苦しみ、さほど継続的に活躍できなかった。
黒田がカープに入団したのは、ちょうどこの頃──1997年のことだ。同期入団の澤崎が12勝して新人王となった1年目、黒田も6勝9敗・防御率4.40ながらも規定投球回に達した。大卒1年目のドラフト2位としては上々のスタートだった。しかし、ここから2年間、黒田は苦しむ。2年目はわずか1勝、3年目は5勝と伸び悩んだ。この頃の黒田は、球威はあるものの、とてもコントロールが荒い投手だった。
安定してきたのは、4年目の2000年後半からだ。9月中旬以降の4試合すべてを完投し(うち1完封)、翌年につなげた。エースとして認められたのは、翌2001年からだろう。この年、山本浩二が二度目の監督に就任し、1年間ローテーションを守りきった。結果、12勝8敗・防御率3.03・190投球回と申し分のない成績を収めたのだ。さらに、リーグトップの13完投をし、「ミスター完投」と呼ばれるほどの活躍だった。
このとき、入団から5年を経過していた。早生まれの黒田は、27歳でエースとなったのである。同世代には、川上憲伸(当時中日)や上原浩治(同・巨人)がいるが、新人王を獲得した彼らは1年目からエースとしてチームを支えていた。大記録を残す投手としては、かなり遅咲きの部類に入る。
そもそも黒田は、アマチュア時代から順風満帆だったわけではない。大阪の名門・上宮高校時代は補欠で、専修大学では後にチームメイトになる1学年上の小林幹英を目標としていた。注目され始めたのは大学3年以降であり、しかも逆指名制だった当時に資金力に乏しいカープから声がかかった。さらに新人王も同期の澤崎が持っていった。大学4年生の1年間を除けば、20代後半になって誕生したエースだったのだ。
2001年以降の7年間、黒田は低迷するカープのなかで獅子奮迅の活躍をした。2005年には最多勝を獲得し、翌06年には最優秀防御率に輝いた。その一方でチームは、この間Aクラスになることは一度もなく、“定位置”と揶揄される5位以外は4位と最下位が1回ずつという状況だ。いまだに黒田がカープでAクラスを体験したのは、新人だった1997年だけだ。
それもあってカープファンは、2006年に黒田がフリーエージェントの権利を達成したとき、とても大きな不安を抱いた。広島市民球場での最終戦では、黒田へのメッセージを巨大な横断幕が外野席を覆い、黒田はそのなかで9回裏2アウトから登板して最後のバッターを打ち取った。この年、黒田がFA権を行使せず、国内では生涯カープを宣言したのは、この横断幕があったからだ。
そして翌2007年のシーズンオフ、黒田はFA宣言をしてアメリカに経っていった。
2008~2014年:メジャーリーグ時代
2008年にロサンゼルス・ドジャースに入団した黒田は、当初4年契約を打診されていた。しかし、それをあえて3年にしたという。契約期間を長くすることはあっても、短くする選手は異例だ。黒田はそれを「4年間もそんな苦しいことはできない」からだと説明する(※1)。
結果、ドジャース移籍してからの最初の3年間で、黒田は計28勝をあげる活躍をする。2008年、09年続けて地区優勝を果たし、リーグチャンピオンシップでも登板した。カープ時代にはいっさい優勝と縁のなかった黒田にとって、それは初めての経験だった。
4年目の2011年からは単年での契約だったが、これも本人の意向によるものだ。この年、チームは早い段階からプレーオフ進出が厳しい状況だった。そんななか、調子が良かった黒田には優勝を狙う6、7球団からトレードのオファーがあったそうだ。しかし、拒否権を行使して最後までドジャースで投げ続けた。このとき黒田は、トレードで移籍したことを想像して、こう考えたそうだ。
「そのチームで優勝して、心の底から、素直に喜べるか」(※2)
結果、黒田はトレードを選ばなかった。黒田が物事を打算抜きで考えるのは、こうしたところからかいま見られていた。この年、13勝・202投球回・防御率3.07とメジャー最高の成績を収める。そして満を持して、翌2012年にニューヨーク・ヤンキースへ移籍する。
この4年間のドジャース時代の黒田を振り返ると、最初の2年間はメジャーリーグの移動やスケジュールに慣れずに苦心していたことが結果から見て取れる。すごいのは、そこから徐々にアジャストしていき成績が向上していることだ。しかも33歳から36歳という、アスリートとしては衰えが出る年齢になって、結果が上がっている。これは驚くべきことだ。
その勢いは、ヤンキースに入団した以降も続く。2012年は、16勝・219 2/3投球回・防御率3.32と素晴らしい結果を残す。さらに、2013、14年も11勝だったが、200投球回前後を黒田は投げている。年間32~33試合に登板し続けたのである。2年目を除き、メジャーリーグでこれを6シーズン達成したのは、素晴らしい安定感だ。しかも年齢は30代後半だ。
これがいかに驚異的な結果であるかは、他の投手と比較してもわかる。ここ20年ほどの主な投手でも、30代後半で991 2/3回も投げた投手は他にいない。次にもっとも多いのが三浦大輔(DeNA)の744 2/3回、40代後半まで現役を続けた工藤公康や山本昌でも600回台であるように、黒田は年をとるにつれてパワーアップした。
ただ、それはかなり苦しかったと黒田は振り返っている。なかでも、移動しながら中4日で先発を繰り返すことは、非常に過酷だったようだ。時差とデイゲームが重なれば、実質的に中3.5日ほどのこともあったという。30代中盤から後半にかけて、黒田は7年間もこの生活を続けたのだ。
2015年カープ復帰、そして──
2014年末、メジャーリーグでの7年目のシーズンをヤンキースで終えた黒田は、カープへの復帰を表明した。パドレスからは年俸1800万ドル(当時のレートで約21億6000万円)のオファーを受けていたと報道されていたが、それを蹴って年俸4億円+出来高のカープを選んだ。
黒田の復帰は、シーズンオフには必ずファンの間で噂になっていた。とは言え、もう7年もカープを離れてもいたので、ファンはそれほど大きな期待をしていたわけでもない。だからこそ、大きな驚きと喜びをもって受け入れられた。
この決断に、黒田は大きく迷っていたという。その逡巡の模様は、復帰した2015年4月に出版された文庫版『決めて断つ──ぶれないために大切なこと』で詳しく書かれている。
ぶれない決断──シーズン前のこの覚悟に対し、黒田はしっかりと結果で答を出した。2015年、26試合に先発して11勝・169 2/3投球回・防御率2.55と、堂々の成績だった。今年もここまで順調に勝ち星を重ね、200勝に到達した。防御率も2点台だ。
黒田の選択が正解であったことは、本人よりもファンの誰もが認めるところだ。
こうなると、残すは優勝だけだ。2位とは11ゲーム差、このまま行けば今月中にマジックが点灯する。
メジャーでも地区優勝どまりだった黒田は、いまだにリーグ優勝を経験していない。それは、今年2000本安打を達成した新井も同様だ。昨年カープに復帰した40歳前後のこのふたりが、チームを引っ張ってきた。
ヒーローインタビューでも黒田はこう言った。
「大きな目標に向かって、あしたから頑張っていきたいと思います」
目指すはリーグ優勝、そして日本一だ。
※1……黒田博樹『決めて断つ──ぶれないために大切なこと』(2015年/ワニ文庫)
※2……同前書。
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