日本教育の大きな岐路となった「1969年」。今こそ根底にある価値観のシフトを
民主化教育を諦め、管理教育へと大きくシフトした1969年
若者の政治参加の低迷、最近話題の「ブラック校則」や「部活動強制加入」を考えるにあたって、「1969年」ほど重要な年はない。
「1969年」は、戦後目指してきた日本の民主化教育を諦め、管理教育へと大きくシフトした象徴的な年だからである。
その最大の象徴が、主権者教育に関心のある人々の間では有名な、「1969年通達」である。
昭和44年(1969年)、文部省は「高等学校における政治的教養と政治的活動について」(昭和44年10月31日文部省初等中等教育局長通知)という通知を出し、高校生の政治活動を「教育上望ましくない」とし、政治教育も慎重に行うべきだとした。
「放課後、休日等に学校外でおこなわれる生徒の政治的活動は、……学校が教育上の観点から望ましくないとして生徒を指導することは当然である」
「現実の具体的な政治的事象は、取り扱い上慎重を期さなければならない性格のものであるので、必要がある場合には、校長を中心に学校としての指導方針を確立すること」
こうした取り組みの背景にあったのは、東西冷戦の激化、60年安保闘争の激化、学園紛争の激化である。
また、「部活動強制加入」につながる「必修クラブ」が導入されたのも1969年である。
1969年、1970年改訂の学習指導要領において、任意の自由研究の一環として導入された「クラブ活動」が必修化され、1999年の見直しまで「必修クラブ」は続く。
「クラブは、学年や学級の所属を離れて共通の興味や関心をもつ生徒をもって組織することをたてまえとし、全生徒が文化的、体育的または生産的な活動を行なうこと」(文部省1969年中学校学習指導要領)
そして部活動との代替措置が取られ、いまなお部活動の実質的必修化は色濃く残っている。
関連記事:部活動の強制加入はなぜ続いているのか?7つの理由(室橋祐貴)
戦後に志向された「民主化」教育
一方、戦後、日本は「民主化」を目指し、「民主主義」教育を積極的に行おうとしていた。
「クラブ活動」が導入された1951年学習指導要領では、特別教育活動は生徒自身の手で計画・組織・実行・評価されるもので、それを通じて民主的生活の方法を学び、公民としての資質を高めることができるものとされた。
つまり、「特別教育活動」は、民主主義の原理と生活の方法を学ぶ活動として位置付けられていた。
「クラブ活動は当然生徒の団体意識を高め、やがてはそれが社会意識となり、よい公民としての資質を養うことになる。また、秩序を維持し、責任を遂行し、自己の権利を主張し、いっそう進歩的な社会をつくる能力を養うこともできる」(文部省1951年中学校学習指導要領)
「生徒は強制されてはいけない。生徒がクラブ活動の中心である。したがって、クラブ組織については、生徒評議会の会議でじゅうぶん討議され、審議されるべきである。教師は指導者となって働いてもよいが、生徒の意見を重んじなければならない」(文部省1951年中学校学習指導要領)
クラブ活動はあくまで、民主主義社会の形成者を育成するための取り組みだったのである。
だからこそ、生徒自身の意思を尊重することを重視していたのであり、強制していては「民主化」教育につながらない。
「クラブ活動に全校生徒が参加できることは望ましいことであるが、生徒の自発的な参加によってそのような結果が生まれるように指導することがたいせつである」(文部省1958年中学校学習指導要領)
しかしそうした精神は今となっては失われ、その転機となったのが、上述の1969年から始まるクラブの「必修化」である。
こうした戦後の民主化教育の精神は、生徒指導の場面でも多く見られた。
1948年に公刊された、文部省著作の教科書『民主主義』では、「民主主義を学ぶ方法」として、「ものごとを学ぶためのいちばんよい、いちばん確かな方法は、学ぶべき事柄を実行してみることである」と述べている。
そして「学校という社会の民主主義」について学ぶために、生徒会の前身にあたる「校友会」が重要な位置を占めるとしている。
1949年に文部省から出された「新しい中学校の手引き」では、生徒会の目的は「生徒をして、民主社会における生活様式に智熟せしめることである」とし、学校の活動は「民主的でなくてはならない。そのためには、学校は、生徒の活動に関する生徒との協議会をいろいろ持つことが必要である。・・・・・・いろいろな協議会の中には、校則や、学級のきまりや、学級文庫・学校図書館の規則を推薦するための協議会」と記述している。
しかしこうした生徒の自由や権利、学校内の民主主義を重視する価値観は、1960年代後半以降から失われていった。
そしてそうした考え方、価値観は今も続いたままである。
日本とは逆に、同時期に民主化教育を加速させた欧米
学園紛争自体は、日本だけで行われていたわけではなく、世界各国で行われていた。
1960年代後半に世界各地で起こった学生運動の総称を「スチューデント・パワー」とも呼ぶ。
しかし、その後の、社会の対応は、日本とそれ以外で大きく異なる。
欧米ではむしろこれを機に、「民主化」が加速している。
フランスでは、学園紛争が生じた時期から徐々に、学校運営への生徒参加が制度化され、学校運営に生徒・父母の参加が保障されるようになっていった。
詳細は別記事で紹介したが(『海外ではどのように「学校内民主主義」を実現しているのか?フランスの事例を参考に』)、生徒が「学校管理評議会」に参加し、学校にかかわるさまざまな事項(予算、学校教育計画、校則、健康、安全など)について討議している。
同様に、ドイツでは、1973年に「学校における生徒の位置付けについて」を常設文部大臣会議で決議して、学校と生徒との関係にあった「特別権力関係」を廃止して、「学校関係」(生徒も一般市民の法律と同じルールとする)に転換した。
そして、各州が「学校参加法」を定め、人権侵害から守ることはもちろん、子どもの権利(12条=意見表明権)を確保するために、小学5年生から学校の最高決議機関である「学校会議」に代表を出して学校運営をしていくことにしている。
アメリカでは、生徒は学校内においても基本的人権を原則的に享有していることが明確化された。
1969年のアメリカ連邦最高裁判所判決(ティンカー事件)では、こう判じている。
「学校という環境の特殊性に照らしても、修正第1条の諸権利は教員ならびに生徒に妥当する。生徒も教員も、言論ないし表現の自由という彼等の憲法上の権利を校門の所で脱ぎ捨てはしないということは、殆ど議論の余地はない」
「禁止された行為が、学校活動に求められる適切な規律の確保要請を実質的かつ相当に妨げることが証明されない限り、かかる禁止は認められない。」
「われわれのシステムにおいては、公立学校は全体主義の飛び地であってはならない。学校職員は生徒に対して絶対的な権力を有するものではない。生徒は学校においても、学校外におけると同じく、わが憲法の保障の下にある人間なのである。彼等は州が尊重しなければならない基本的な権利を享受している。それはあたかも、生徒が州に対する義務を遵守しなければならないのと同様である。」
こうした民主化教育を進めたヨーロッパを中心とした国々と、管理教育を強化していった日本の、政治参加の現状、社会運動の活発さの違いを見れば、その影響の大きさは明らかである。
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今こそ「民主化教育」再チャレンジを
新型コロナウイルスへの対応について、権威主義体制が「成功例」かのように報じられることもあったが、現状のロシアによるウクライナ侵攻を見れば、権威主義は短期的には成功をもたらす可能性があっても、長期的には非常に危うく、脆い体制であることは明らかである。
多様な意見を尊重し、民主的に決定することで、軌道修正をしやすくする。その価値の重要性を今ほど実感する時はない。
一方、日本では「1969年」を大きな皮切りに、戦後志向していた民主化教育を諦め、管理教育へと大きくシフトしてきた。
昭和から平成、令和へと元号は移り変わってきたが、「ブラック校則」、「部活動強制加入」などの実態を見ても、その根底にある価値観は変わっていない。
今国会では子どもの権利を法的に保障する「こども基本法」が成立されようとしているなど、その変化の兆しも見えつつはある。
今こそ、戦後の教育的価値観の変遷を検証し、「民主化教育」の再チャレンジを進めるべきだ。