「人権無視生む憲法より校則」のままで良いのだろうか?
子どもの人権侵害を許容する特別権力関係論・学校部分社会論
「中学生のころ、私を含む大部分の生徒が、憲法は未成年者には適用されないと思っていた。•••••本当にそう信じていた。
丸刈りの強制や体罰は、憲法で保障された基本的人権を侵害するものではないか、との問いに、教師は『権利とは決められた義務を果たした後に、初めて与えられるものだ。納税、勤労の義務を果たしていないお前らに、権利を口にする資格はない。子どもにとっては校則が憲法であり、法律だ。校則を守ることを考えろ』と言った。
理路整然と言われると、それが世の中の常識でルールなのだと思ってしまう。憲法上の人権は•••••子どもにはないものだと、疑うことなく信じていた。憲法が施行されて50年にもなるというのに、いまだに、どうして憲法より校則を優先させるのか。•••••憲法はだれにでも例外なく適用されるという、常識以前のことを説かねばならないのが、この国の現実なのである」。(『朝日新聞』1997年5月3日付け)
「人権無視生む憲法より校則」というタイトルで記された、市民からの投書は旧来の日本の学校教育の一端を見事に指摘している。
しかも、先日“黒染め訴訟”で、大阪地方裁判所は「教員らの頭髪指導は違法ではない」「正当な教育目的で定められた合理的なもの」と、生徒側の訴えを退けたように、20年以上経っている現在においても大きくは変わらない。
また先日の国会答弁において、萩生田文科大臣は「人権、人格を否定する校則は望ましくない」と発言したものの、校則を決めるのはあくまで校長の権限として、行政として学校の校則是正に「介入」することに対しては一貫して消極的な姿勢を示している。
関連記事:萩生田文科大臣「人権・人格を否定する校則は望ましくない」。校則のHP公開にも前向きな姿勢(室橋祐貴)
なぜこのような子どもの人権を侵害する現状が許容されてきたのだろうか。
学校の決まりを憲法よりも上位に位置づける背景としては、学校当局は「特別に強められ、高められた権力主体」として、生徒に対して包括的支配権を有するという、「特別権力関係論」が援用されてきた。(明治憲法下においてドイツから輸入された)
しかしその後、諸外国においてはこの考え方が大きく見直され、輸入元となったドイツでは、1973年に「学校における生徒の位置付けについて」を常設文部大臣会議で決議して、学校と生徒との関係にあった「特別権力関係」を廃止して、「学校関係」(生徒も一般市民の法律と同じルールとする)に転換した。
そして、各州が「学校参加法」を定め、人権侵害から守ることはもちろん、子どもの権利(12条=意見表明権)を確保するために、小学5年生から学校の最高決議機関である「学校会議」に代表を出して学校運営をしていくことにしている。
これはドイツに限らず、欧米では自明視されている。
1969年のアメリカ連邦最高裁判所判決(ティンカー事件)では、こう判じている。
「学校という環境の特殊性に照らしても、修正第1条の諸権利は教員ならびに生徒に妥当する。生徒も教員も、言論ないし表現の自由という彼等の憲法上の権利を校門の所で脱ぎ捨てはしないということは、殆ど議論の余地はない」
「禁止された行為が、学校活動に求められる適切な規律の確保要請を実質的かつ相当に妨げることが証明されない限り、かかる禁止は認められない。」
「われわれのシステムにおいては、公立学校は全体主義の飛び地であってはならない。学校職員は生徒に対して絶対的な権力を有するものではない。生徒は学校においても、学校外におけると同じく、わが憲法の保障の下にある人間なのである。彼等は州が尊重しなければならない基本的な権利を享受している。それはあたかも、生徒が州に対する義務を遵守しなければならないのと同様である。」
つまり、生徒は学校内においても基本的人権を原則的に享有しているのである。
2011年に校則に関する政令を定めたフランスでは、前文で校則は「規範のヒエラルキーの原理に合致したものでなければならない。」として、フランス共和国の憲法、国際条約、法律、規則といったヒエラルキーの下位におかれるものであることが示されている。
しかし、日本では特別権力関係論、それに類似した学校部分社会論が援用され続けており、憲法、一般的な法律の範囲を超えたルール(校則)が生徒に適用されている。
たとえば、バイク禁止校則事件に関する千葉地裁判決(昭和62年10月30日)では、こう判じている。
「学校は生徒の教育の目的とする『特殊な部分社会』であり、そこでこの目的を達成するために、教育上の広範な裁量権と生徒に対する包括的な規律権を有している。したがって、これらの権能にもとづく措置・決定は、一般市民法秩序と直接関係する場合や、重大な権利の侵害が問題となっている場合は別として、学校の内部関係における自律的措置であり、これに対しては原則として司法審査は及ばない。」
「学校は公立私立を問わず、生徒の教育を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも学校長は、その設置目的を達成するために必要な事項を校則等により一方的に制定し、これによって在学する生徒を規律する包括的権能を有し、生徒は教育施設に包括的に自己の教育を託し生徒としての身分を取得するのであって、入学に際し、当該学校の規律に服することが義務づけられる。」
世界的な潮流とは逆行する、校長の権限強化(反民主化)、管理と規律の強化
さらに、欧米諸国が1960年代末の「大学・学校の民主化」要求運動や、1989年の子どもの権利条約の採択以降、子どもの意見表明権を確保するために、制度的に学校運営への生徒参加を保障、つまり学校を民主化している流れとは大きく逆行し、日本では校長(学校長)の権限強化、さらに管理と規律の強化が進められている。
関連記事:海外ではどのように「学校内民主主義」を実現しているのか?フランスの事例を参考に(室橋祐貴)
2000年の学校教育法施行改正では、校長権限が強化され、職員会議は「校長の補助機関」となり、東京都教育委員会は2006年に職員会議で教職員の意思を挙手や採決で確認することを禁止した。
文科省も2014年に都教委と同じ内容の通知を出し、翌年にはそれが守られているかどうかの全国調査を実施して守っていない学校には是正させた。
こうして職員会議で教職員が自由に議論して決定していくことがなくなっていき、校則を含む学校運営のすべては「校長が決める」という現状になってきている。
しかし、それでは各校長の意識(善意)に子どもの人権尊重が大きく左右されるため、問題を抱えていることは言うまでもない。
国連子どもの権利委員会では、学校運営への生徒の参加に関してこう勧告している。
さらに、2006年に定められた新教育基本法では、「国を愛する態度を養う」とともに「規律を重んずる」教育(第六条)が定められ、翌年文科省が「問題行動を起こす児童生徒」には毅然とした指導を行うよう通知し、「ゼロ・トレランス」(寛容度ゼロの米国式生徒指導)と「スタンダード」(教師と生徒への生活統制)が広がっている。
結果的に、主体性を持って批判的に物事を考える生徒ではなく、ルール遵守の意識が強い生徒が増えている。
近年は「開かれた学校」づくりとして、学校評議員や学校運営協議会(コミュニティ・スクール)の設置が進められているが、そこに生徒は参加していない。
また、“黒染め訴訟”に関する、大阪地方裁判所の判決を見ても、基本的には従来の学校部分社会論が援用され続けている。
このように、日本の学校は民主主義国家の中で特異な体系になっていると言っても過言ではない。
しかしはたして、校則は憲法より上位の存在、その校則の権限は校長に絶対的に委ねられている現状のままで良いのだろうか?(校則に限らず、政治活動の制限≒生徒の意見表明の自由、集会の自由など、学校内外に関する様々な内容で同じ問いが投げられる)
最終的にはどのような人材を育てたいのかという話と大きく関わってくるが(受動的にルールを守るだけの人材か、能動的に社会を作っていく人材か、民主主義を尊重する人材か等)、各国で、子どもの基本的人権を守るために、学校も含めて制度化が進んだように、日本においても、憲法・法律と校則との関係、校則の決め方(校長の権限強化)の再考が求められているのではないだろうか。
そのような問題意識を持っていたところ、まさに、3月25日には、熊本市の教育委員会で、校則制定についての学校管理規則の改正が行われ、下記3つの内容が定められた。
・校則は必要かつ合理的な範囲内であること
・校則の制定・改廃に教職員、児童生徒、保護者が参画すること
・校則を公表すること
校則見直しを各学校で実施する際のガイドラインも制定されており、今後は各自治体、行政において、同様の動きが求められるだろう。
参考文献:
『高校生の法的地位と政治活動 日本とドイツ』(結城 忠,2017)
『校則、授業を変える生徒たち 開かれた学校づくりの実践と研究』(浦野 東洋一ほか,2021)