Yahoo!ニュース

3月10日は「佐藤の日」 全国最多200万人の名字の由来を探る

森岡浩姓氏研究家
佐藤の会のホームページ画像(佐藤の会より提供)

3月10日は「佐藤の日」である。

といっても、この日に歴史的ないわれがあるわけではなく、「3(さん)」と「10(とお)」で「さとう」という語呂合わせで、栃木県佐野市に事務局を置く佐藤の会が提唱して、毎年イベントも開催している。今はコロナ禍ということでオンラインでの開催となっており、今年は13日に「佐藤の会聖地巡礼 オンラインツアー」という配信イベントが行われる予定だ。

では、なぜ佐野市がこうしたイベントを開いているかというと、佐野市が「佐藤」のルーツの1つとなっているからだ。

佐藤の由来

「佐藤」という名字は、下に「藤(とう)」がついていることから、「伊藤」や「加藤」と同じく藤原氏の末裔である。「伊藤」は「伊勢の藤原」、「加藤」は「加賀の藤原」という意味ではっきりしているが、「佐藤」の由来については諸説ある。

そもそも、最初に「さとう」と名乗ったのは、平安時代後期に左衛門尉となった藤原公清という人物。公清は左衛門尉の「左」と藤原の「藤」で「左藤」となるところを、「左」の代わりに「佐」という漢字を用いて「佐藤」と名乗ったとされる。この「佐」が何に由来するのかに大きく2つの説がある。

1つは、当時有名な武士だった叔父の公行が佐渡守だったからというもの。「伊藤」の「伊」や、「加藤」の「加」も伊勢や加賀に由来しているので、「佐藤」の「佐」も旧国名の佐渡に由来するというのはわかりやすい。さらに公清の父公光は養子で、叔父公行は公清にとって実の祖父だった。祖父の業績に因んで「佐藤」を名乗ったというものだ。

そしてもう1つが、公清の先祖で平安時代のスーパースターであった藤原秀郷が佐野を本拠にしていたから、「佐野」の「佐」をとったというものだ。つまり、「佐野にいたあの秀郷の子孫という由緒ある武家」ということを明確にするために、あえて「佐藤」にしたというものだ。

その後の佐藤一族

佐藤一族からは、伊藤氏や首藤氏などが生まれ、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場している山内首藤経俊は、この首藤氏の一族。しかし、公清の曾孫にあたる義清が23歳で出家、家はその弟が継いだものの、以後佐藤本家は次第に没落していった。

すると、陸奥国信夫庄(しのぶ、現在の福島市)にいた公清の従兄弟の子にあたる師清が佐藤氏を称して、新たに信夫佐藤氏として「佐藤」を代表する武家となった。この信夫佐藤氏も藤原秀郷の末裔だが、佐渡守となった公行とは直接関係がない。

つまり、「佐藤」一族とは藤原秀郷の末裔の武家を広く指すものと考えられ、「佐藤」の「佐」は秀郷に因むというのは納得がいく。

藤原秀郷は平将門の乱(天慶の乱)を平定した他、近江三上山の百足退治など超人的な伝説も伝わって著名なわりに、その生涯ははっきりしないことが多い。秀郷は下野守となり、佐野に唐沢山城を築いて本拠地にしていたといわれている。

このことから、「佐藤」の「佐」は佐野に因んでいるとし、それをもとに佐野市が「佐藤さんのふるさと」として全国200万人の佐藤さんに呼びかけ、シャチハタと「佐藤」のハンコを共同開発するなど精力的な活動を続けている。

因みに、全国第2位は「鈴木」で約175万人、第3位は「高橋」で約145万人となっている。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

森岡浩の最近の記事