情報だけでも命は救える・レイテ奇跡の集落
昨日(18日)の毎日新聞夕刊に、「レイテ奇跡の集落」という記事が掲載されました。
記事内容をかいつまむと、レイテ島東部にあるドゥラグという漁師町では、町長のマニュエル・シアケさん(60)が、台風上陸前日にすべての集落を回り、国の法律を根拠に1万7000人の住民を強制的に避難させ、それによってこの集落からは死者がほとんど出なかったというものです。
この記事を読んで、私は伊勢湾台風時の名古屋地方気象台予報官、島川甲子三氏の事を思いました。
島川さんは、私が気象協会時代(名古屋)のときの直属の上司ですが、島川さんによると、伊勢湾台風が未曾有の台風であり、その上陸が避けられないことを前日から危機感を持って認識していました。そして、あらゆる予・警報をできるだけ早く発表し、当初の気象官署としては、万全を期したつもりだったそうです。
以下、以前私が書いた文章を一部、加筆引用させていただきます。
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・・・・・・島川さんと、およそ30年ぶりに電話でお話しさせていただき、伊勢湾台風当時の状況を教えていただきました。
当時の台風予測の基本は「類似台風」といって、似たコースの台風を探すところから始まります。また季節的に、台風がどいういコースをとることが多いかとか、それに高層天気図の風の流れなどを加味して判断していたそうで、伊勢湾台風が南海上にあった二日前、島川さんらは巨大な台風の接近があるかもしれないと考えていました。そして上陸前日の25日には、この巨大な台風の上陸が免れないと危機感を強めていました。
島川さんらが「類似台風」としたのは、昭和28年に東海地方を直撃した13号台風(5313号)です。
しかし、島川さんによると、伊勢湾台風が上陸する10日前に、沖縄のすぐ西の海上を通って宮古島を中心に大被害を与えた台風(のちに宮古島台風)こそ、「類似」とすべきだったとのことです。
ところが、当時の沖縄(県)は、米軍の統治下で宮古島台風の被害状況などは詳しく伝えられていなかったのです。
もし、もっと被害情報などがあれば、多くの人が伊勢湾台風に対して警戒心を持ったことでしょう。
そして伊勢湾台風上陸当日、名古屋地方気象台は午前11時15分に暴風雨警報、波浪警報、高潮警報などを発令し、記者会見も開き、当時の技術水準としては、最良の注意喚起を行いました。
しかし結果は、まさかの大災害。島川さんは三日後、被害の大きかった地域を訪ねて、小学校、役場、警察がどのように受け取ったか聞き取り調査をしました。
そこで島川さんは、気象情報がまったく住民に届いていなかったことに愕然とします。届かなかった理由はいくつかありますが、ひどいのは、当日が土曜日だったこともあり、役所は半日で終わり。引き継ぎもなされず、情報は担当者の机の上に乗ったままというのもあったそうです。
また、予想進路が伊勢神宮付近を通っていたので、「伊勢神宮は昔から災害がよけていく」として、進路予想を信じない人も多かったといいます。
島川さんは、その後「どんないい情報でも届かなければ意味がない」と考え、5年後(昭和39春)に気象台を退職し、日本で初めて名古屋のNHKで、気象キャスターとして気象解説を担当したのです。
蛇足ですが、この島川さんは私が気象協会東海本部時代の解説予報部長で、私は島川さんの命令で東京に転勤しました。
気象キャスターの始祖
http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map/58569272.html
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実はこの伊勢湾台風の二年後、1961年9月には伊勢湾台風より強い第二室戸台風が近畿地方を襲います。
しかしこのときの死者数はおよそ200名です。亡くなった方を定量的に論ずるのは意味のない事かもしれませんが、第二室戸のときには伊勢湾台風の教訓が生かされ、インフラはほとんど変わっていないのに、被害を軽減させることができました。
フィリピンのドゥラグ町の例も、情報と適切な指示があれば、インフラの不備はある程度補完することができるということでしょう。