風も我が農業
有機農業運動が動き出した70年代初頭、巨大開発に抗して「農地死守」を掲げて国家に真っ向からの闘いを挑んだ農民闘争がありました。三里塚闘争と呼ばれるこの闘争に記者であり支援者でもあるという中途半端な形で関わり続けて今に至っているのですが、この闘いの中から、”もう一つの三里塚闘争”とも呼ぶべきうねりが生まれたことはあまり知られていません。
農家の後継ぎの青年たちが集まった青年行動隊は、実力部隊として存在感を発揮していましたが、その中から有機農業運動が生まれたのです。その中の一人、石井恒司に「どうして」と聞いたことがあります。
「国と命がけで喧嘩しているとき、暮らしを支える農業が国が進める近代農業ではつじつまがあわないだろ」というのが答えでした。当時、彼らは刑務所と田畑を往復する日々でした。
「(刑務所の中では)時間があるから、戻ったらどんな百姓をしようか考えるわけだよ。その中で国家とは縁を切った百姓がしたいと考えた」.
90年代、ぼくは相変わらず三里塚通いをしていました。ある日恒さんを訪ねると、撮影隊が来て畑の恒さんを撮っていました。見物していたら、ディレクターらしき人物が「ここで農業を続けているのは、やはり有機農業で長年土を作ってきたからですか」とよく言われる常套文句で聞きました。恒さんはちょっと考えて、土だけじゃないのよね、といいました。
「この畑の向うに森があるのだけど、そこから吹いてくる風だって俺の農業なんだよね」
いくつもの修羅場をくぐってきた百姓が語る「風もまた我が農業」という言葉。三里塚に通い続けてよかった、と思ったものでした。当時のまま、いまも三里塚通いは続いています。