【熊本地震】知られざる127年前の「熊本地震」 二度の激しい揺れと長期の余震に人々は苦しんだ
二度の激しい揺れに襲われた「平成28年熊本地震」。「想定外」という表現が報道でもさかんに用いられ、筆者自身も今回の地震で初めて「前震」という言葉を知った。しかし、さかのぼること127年の明治時代、よく似た特徴の「熊本地震」が起きていたことは、あまり知られていない。この時の記録を後世に伝え、防災・減災に役立てようと、熊本市都市政策研究所は今年1月、当時の状況を詳細に記録した「熊本明治震災日記」の現代語訳版を出版した。本書を、これから数回にわたり読み解いていきたい。
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二度の激しい揺れと長期の余震
「明治熊本地震」は、明治22(1889)年7月28日深夜、熊本市の金峰山付近を震源に発生した。マグニチュード(M)は推計で6・3。地震により21人が死亡、200棟以上の建物が全壊した。早いタイミング(発生から6日後の8月3日)で再び激しい揺れが起きている点、余震が長期にわたり発生(地震から5カ月の12月末までに余震500回以上)している点ーーで、「平成28年熊本地震」と特徴がよく似ている。
本書は、明治7(1874)年、熊本県初の新聞「白川新聞」(後の熊本新聞)を発行した、水島貫之(みずしま・かんし)による編纂。「日記」としているものの、当時の新聞記事と、実際に水島が被災した町を歩いて見聞した内容とを照らし合わせて書かれており、「信頼の置ける内容」(同研究所)といえる。
本書によると、明治22(1889)年7月28日深夜の地震発生時、「西の方から大きな音がとどろき響いてきたかと思うと、家屋が急に揺れ始めた」という。数分後、再び大きな揺れがあったため、水島は庭の芝生の上に家族を座らせた。
しばらくの間は「親は幼子を呼び、子どもは親を慕う呼び声が多くこだまし、近くの子供の泣き声はうるさいくらいであった」という。数時間経って、人々が怖がる声は静まってはきたというが、余震が絶え間なく起きるため、「とうとう人々は家の中に入ることを恐れて、地面にむしろを敷き、あるものは畳を持ち出して敷き、夜露にぬれながらも一夜を明かした」としている。7月30日になっても、人々は用心し続け、家ごとに街道に設けた「仮小屋」に避難していたという。
平成28年熊本地震と重なる明治の描写
明治22(1889)年8月3日午前2時過ぎ、二度目の大地震が発生する。水島はこの時のことを、「多くは家に入ってゆっくり横になり、数日の疲れを忘れて眠りにつく頃だったので、人々の驚きは言いようもなく、二十八日の夜に起きた最初の地震の時よりも、世間の騒動はひどかったように思われた」と記している。
日記で引用している海西日報の記事では、「先月二十八日の大振動に比べればやや弱かった」とした上で、「またしても大地震が起こったので、周章狼狽(しゅうしょうろうばい:慌てふためくの意)ぶりはまさしく並大抵ではなかった」と、市民の様子を表現。人々は一度は戻った自宅を飛び出し、すぐさま「仮小屋」めがけて駆け出したとしている。
筆者(田中)は「平成28年熊本地震」の「前震」発生時、家族で近所の公園に避難した。被災者らはビニールシートなどを敷き、家族で身を寄せ合っていた。余震のたびに悲鳴が聞こえた。「本震」発生時は、もう大きな揺れは起きないだろうと思い込んでいた最中の揺れで、生きた心地がしなかった。地震からしばらくの間は、公園でテント生活を続ける人も多く見られた。この時の記憶と、この日記の描写は、重なる。
「熊本で起こる地震の特徴である可能性がある」
現代語訳版を出版した、熊本市都市政策研究所の植木英貴副所長は、「明治熊本地震」と「平成28年熊本地震」は、動いた断層が異なるにもかかわらず傾向が同じであると指摘。その上で、「これらは熊本で発生する大地震の特徴の可能性がある」と強調する。また、熊本に限らず、各地域で地震の特徴が異なるはずで、地域ごとに各時代の大地震の被害分布や特徴を分析することで、防災・減災に役立てられるはずだと訴える。
現代語訳版「熊本明治震災日記」は、A4判252ページで、1部1000円。熊本市役所地下売店で販売。郵送による販売の取り次ぎは、市政情報プラザまで(TEL096-328-2059)。