「外国語使いすぎ」でNHK提訴-カタカナ語について考える
外国語の乱用で内容を理解できず、精神的苦痛を受けたとして、71歳の男性が名古屋地裁に慰謝料を求めて提訴した、と報じられました。このことについて、少し考えてみたいと思います。(今回の場合、外国語=カタカナ語という前提で書かせて戴きたいと思います。)
◆社会の言葉とテレビの言葉
外国語が指し示すものや概念自体が外来のものであれば問題ないですが――かつては外来のテニスを「庭球」としたり日本語があてられた時代もありましたが――、元々日本語がある言葉に外国語をあてるのが問題だというんですね。
こういう場合、それが外国語であるかどうか、よりも一般的に使われているかどうか、という判断にした方が良いと感じます。例えば男性の主張する「ケア」「リスク」「トラブル」などはすでに社会的に浸透しつつありますから、日本語化が進んでいるといえそうです。「語彙」と「ボキャブラリー」は辞書的には同じ意味ですが、圧倒的にボキャブラリーを使う人が多いと思いますし、語彙を漢字で書けない人が大半ではないでしょうか。つまり今の環境に適応することで、テレビにとっても伝わりやすいものになりますし、視聴者にとっても社会とのチューニングを合わせる基準にすることが出来るのだとも考えられます。
もちろんテレビ主導で日本語が意図的に変えられるようなことは共感できませんし、環境に関しても地域差はかなりあるかとも思いますが。
◆カタカナにすると変わるイメージ
「ケアする(される)」のと「介護する(される)」では、前者の方がイメージが良いと感じる方も多くいらっしゃると思います。例え同じ意味だとしても、外国語にすることで重さや明るさなどが変化します。たいていの場合、ライトでニュートラルなイメージになると思います。
今書いた「ライトでニュートラルなイメージ」を日本語にすると「軽く中立な印象」になりますね。これはもう伝える側が自覚して、どちらのニュアンスで伝えたいのか、ということだと思います。無自覚でなければ効果的に伝えるための技術になります。文字の場合でも、意図的にバランスを取ることで、読みやすく伝わりやすくなると思います。
また外国語にすることで別のイメージサークルを持つこともあるので、辞書的に同じでも使い分けていることもあります。例えば、予備校や塾では多くの場合「テキスト」と呼び、学校では「教科書」です。誰も明確に決めてはいないですが、慣習としてテキストと言えば塾や予備校のもので、教科書と言えば学校のものをイメージする方が多いのではないかと思います。
◆どう対応したら良いか
僕が関わっている予備校でも――元々カタカナ語が多い業界でしたが――、どんどん外国語の常用が加速しています。「ピアレビュー」「ベンチマークス」「プロフィシエンシー」「アンバサダー」などの言葉が飛び交い、戸惑う講師や生徒もいます。別に新しい言葉を使うこと自体が悪いとは思いませんが、問題なのはその言葉に対応する概念が漠然としていて、使う人によってズレたイメージを持ったままで生徒に伝えるケースを散見することです。まだ外国語を習っていない小学生も相手にするわけですから、彼らにとっては日本語と同じように入ってきて、しかも放つ側のイメージが固定していないものですから、混乱してしまう恐れがあります。もちろんそういう所属組織の新しい文化に合わなければ、やめて別の予備校に行くという選択もあります。
しかしNHKは公共放送であり、テレビを持っていれば「NHKは見ないので受信料を払わない」という選択肢が公式にある訳ではないので、こういうケースを完全に無視するのもどうかとは思います。なぜカタカナ語にしたのかの根拠・論拠を示すこと、あるいは言葉の説明を任意に表示できるようにすることなど、色々と出来ることはあるのではないかと思います。90年代から雑に使われることが多くなったテレビのテロップを、繊細に、社会的に活用することも出来るのではないか、と感じます。さて、どのような対応がとられますでしょうか。
無自覚に使える母国語だからこそ、それを意図的に使い分けられるようなリテラシーがあればコミュニケーションは円滑になります。国語教育だけでなくマスメディアもまたその責を担っているのではないでしょうか。(矢萩邦彦/studio AFTERMODE)