メッシの伝説の完結。マラドーナとの比較と、書き換えられたストーリー。
伝説が、完結した瞬間だった。
カタール・ワールドカップの決勝は、壮絶な打ち合いになった。アルゼンチン対フランスの一戦は、3−3の末にPK戦に突入。アルゼンチンGKエミリアーノ・マルティネスのPKストップがあり、4−2でこれを制したアルゼンチンがジュール・リメ杯を獲得している。
勝ち馬に乗る姿勢を、私は好まない。それはある種の勝利至上主義であるからだ。ファイナルも落ち着いた気持ちで見ようと思っていた。だが正直なところ、難しかった。リオネル・メッシのワンプレー、ワンプレーに、どうしても目がいってしまうのだ。
「待ちわびていた。でも、最終的には、そこに到達できた。とても苦しんだけど、達成できた。(優勝を)望んでいたけれど、こういう風に成し遂げられるとは思っていなかった。神の御加護で、褒賞が届くと信じていた。このワールドカップだ、とね。いまは、楽しむだけだよ」とは優勝後のメッシの言葉である。
アルゼンチンが最後にW杯で優勝したのは、1986年のメキシコ大会だった。以降、南米の雄は、世界の頂から遠ざかることになった。
その一年後に生まれたのが、メッシだ。1987年にメッシが生まれたというのは数奇な運命ーーちなみに1987年生まれはバルセロナではジェラール・ピケやセスク・ファブレガスと同年代で黄金世代と呼ばれているというのも巡り合わせーーである。
いずれにせよ、メッシはアルゼンチンがW杯で優勝した翌年にロサリオで生を受けた。また、それはまさにディエゴ・マラドーナとの比較の始まりでもあった。
ただ、マラドーナとメッシでは、決定的な違いがある。
映画監督のエミール・クストリッツァが制作したドキュメンタリー『マラドーナ』で、マラドーナ自身が回想するシーンがある。「私がコカインを吸っていなかったら、どれだけの選手になっていたと思う? なんという選手を…、なんという選手を失ってしまったんだ!」とマラドーナが告白する場面だ。
薬物に手を染めたマラドーナとは対照的に、メッシは着実に自分のサッカーキャリアを築いていった。
幼少時代、ホルモン異常があり、成長に問題を抱えていた。メッシが自分で足に注射を打っていたこと、嵩んでいた治療費をバルセロナが負担することで「移籍」が決まったのは有名な話である。
バルセロナでトップデビューを果たして、選手としての成功を手にしても、メッシは変わらなかった。幼馴染と結婚して、3人の子供を授かった。
多くの若い選手が髪を染め、高級車に乗り、SNSでセレブリティ感を盛るなか、メッシはやはり変わらなかった。彼が自宅でペットや子供たちとサッカーに講じる姿はとても自然で、バルセロナやパリで自ら子供たちの送り迎えを行なってきた。
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