千曲川が氾濫した戌の満水から280年、気象災害に備える
280年前の大水害
今から280年前、旧暦の寛保2年8月1日(西暦では1742年8月30日)に、千曲川流域で土石流や洪水氾濫が起きました。江戸でも高潮が起き、その後、利根川、荒川、多摩川周辺でも洪水が発生しました。寛保2年が壬戌(みずのえいぬ)の年であることから、戌の満水と呼ばれています。北上した台風による大量の雨が、長野と関東平野を隔てる関東山地や浅間山、八ヶ岳などに降ったことが原因のようです。8月26日ごろから雨が降り始め9月6日にかけて洪水が起きたようで、8月30日の被害が特に大きかったようです。
戌の満水の被害
戌の満水では、信濃川の上流の千曲川流域で、約3千人の死者が出たと言われていて、家屋流出も約6千戸、田畑の半分以上が流出や冠水の被害を受けたようです。当時の人口は、現在の4分の1程度ですから、今でいうと1万人を超える被害になり、水害としては前代未聞の大災害です。千曲川上流では、支流の土石流被害が甚大で、小諸市や上畑村(現佐久穂町)、金井村(現東御市)などで深刻な被害になりました。また、松代藩城下の善光寺平周辺などでは氾濫被害が酷かったようで、田畑の多くも失われました。このため、各地に慰霊碑や水位標などが残っています。
千曲川沿いの被害
NPO長野県図書館等協働機構・信州地域史料アーカイブの「寛保二年 戌の満水の史実を歩く」に掲載されている自伝的記録「こよみくさ」(瀬下敬忠)には、「7月28日・29日、終日終夜大雨少しも止まず、誠に以て盃を傾けるごとし、八朔(8月1日)百年来もなく大出水 小諸本町をはじめ、田中宿・金井村・上畑村など流失、人馬数知らず溺死。千曲川向の岸と此方と一面に成り、幅五町ばかりに及び、我等も鍛治屋村の田畑流失する。この大変古今未曾有、関東筋はなお以て大変、人死すること員うるにいとまあらず。」と記されており、被害の様子がうかがえます。
享保の改革直後に起きた大水害
戌の満水が起きたのは、1716年に徳川吉宗が第8代将軍に就任したことによって始められた享保の改革が成し遂げられた時期に相当します。吉宗は、質素倹約によって幕府財政を再建すると共に、築堤などを行うことで、積極的に新田開発を行い、経済の活性化にも力を注ぎました。逆に、新田地域は、大雨で堤防が決壊すると、多くの田畑が流出することになります。これは、都市開発による近年の水害とも共通するところです。
享保の改革は、1703年元禄関東地震、1707年宝永地震(南海トラフ地震)、1708年京都の大火、などの災害を受けて新井白石が行った正徳の治の後に行われた改革です。築堤、町火消や火除け地など、様々な防災対策も進められました。このため、吉宗は中興の祖と呼ばれます。
東日本台風でも大きな被害
千曲川は2019年の台風第19号(令和元年東日本台風)でも決壊し、広範囲に洪水被害が発生しました。この台風では全国で102名の死者・行方不明者が発生し、うち長野県では5人の死者が出ました。3,280棟の全壊家屋のうち、長野県は916棟でした。長野市では穂保で約70mにわたって堤防が決壊し、長沼地区が広範囲に浸水すると共に、赤沼にあった北陸新幹線の長野新幹線車両センターが冠水し、北陸新幹線車両の約3分の1に当たる10編成120両が被害を受けました。
長沼地区での地区防災計画
長野市長沼地区は、大町・穂保・津野・赤沼の4行政区から構成されています。この地区では、江戸時代には2年に1回程度の頻度で洪水があり、戌の満水では168名もの人が犠牲になりました。明治時代にも毎年のように洪水があったそうです。このため、妙笑寺境内には、水害の歴史を示す千曲川大洪水水位標が立っています。戌の満水の木札は3.36mの位置にあり、東日本台風の浸水位置はこの木札の80cmほど下にあります。
このように、長沼地区は、きわめて防災意識が高く、2013年には内閣府の地域防災計画策定モデル地区に選定され、2014年11月には長沼地区防災計画策定委員会を設置し、「避難のルールブック」も作成していました。その成果もあり、東日本台風では2名の犠牲者を出したものの、的確に避難が行われ、他地域に比べ人的被害を減じることができたようです。
豪雨や台風が頻発する季節です。過去の災害を学び、十分な備えをし、適切な避難を心掛けたいと思います。