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小早川秀秋が西軍に属し、鳥居元忠が籠る伏見城を攻撃した深刻な理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伏見桃山城の模擬大手門。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、西軍が伏見城を攻撃して落としたが、その中には小早川秀秋の姿もあった。一説によると、秀秋は東軍に味方しようとしたが、それが叶わず泣く泣く西軍に与したという。その辺りの事情について考えてみよう。

 小早川秀秋は西軍に属し、鳥居元忠が籠る伏見城を攻撃した。ところが、秀秋が西軍に味方した経緯については、次の8つにわたる事情があったようだ(『寛政重修諸家譜』)。

①上杉景勝の反逆時、秀秋は伏見城に使者を送り、東軍に忠節を誓っていた。

②秀秋は兄・木下延俊の居城・姫路城(兵庫県姫路市)を譲り受けようとし、家康の許可を受けたが、それは延俊により拒否された。

③家康が伏見から会津に下向した際、秀秋の重臣の稲葉正成・平岡頼勝は密事(後述)を報告した。

④稲葉正成の養子・政貞が家康に近侍することになった。

⑤密事の内容とは、三成らが謀叛を企て、秀頼の幼少時は秀秋に天下を委任すること、筑前・筑後に加えて播磨一国と近江国内に十万石を与えること、正成には黄金三百両を与えることである。

⑥秀秋は伏見城に使者を遣わし、鳥居元忠に味方すると伝えたが拒否され、心ならずも西軍の面々と伏見城を攻撃した。

⑦秀秋の気持ちは家康方にあったので、正成は秀秋に説いて使者を東軍の黒田長政、家康配下の山岡道阿弥に送り、豊臣方(西軍)の情勢を報告した。

⑧伏見城落城後、秀秋は三成に安濃津城(三重県津市)へ行くよう命じられたが、心から服することはなかった。

 ⑥は、秀秋の本心が家康の東軍にあったことを示している。⑦は秀秋が伏見城を攻撃したのだから、東西両軍を両天秤にかけた様子がうかがえる。秀秋の本心としては東軍に味方したかったようだが(⑥~⑧)、条件が整わなかったので、渋々西軍に与したということになろう。

 ただし、『寛政重修諸家譜』は後世の編纂物であり、徳川氏に配慮して都合よく書かれた可能性もある。そのまますべてを信じるわけにはいかないだろう。この点について、別の角度からもう少し考えてみよう。

 家康が率いる会津征討軍に加わった大名の大半は、小山評定で東軍に属して西上の途についた。そのときの状況を考慮すれば、決断を迫られた諸大名が家康の面前で西軍に属すると申し出ることは、不可能に近かったと考えられる。

 後世の編纂物には、家康は諸将に対して自由な決断を促したように書かれているが、それは非常に疑わしい。家康は多数派工作をすべく、各地の大名に味方になるよう要請していた。仮に諸大名が西軍に味方するといった場合、家康は素直に認めただろうか。

 改めて秀秋の対応について考えてみたい。秀秋が三成ら西軍諸将が集まる京都・大坂にあって、東軍に与する意思を公然と表明することは、極めて困難だったと推測される。仮に家康に味方するとの態度を示したならば、秀秋自身が討伐の対象になった可能性も大いにあろう。

 この仮説が成立するならば、秀秋は東軍に味方したかったが、心ならずも伏見城攻めに参加し、そのまま西軍に属した可能性が高かったといえるかもしれない。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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