ジャッキー・チェン主演映画の撮影現場となったシリアの首都ダマスカス南部はどのようにして廃墟となったか
香港の俳優・監督・プロデューサー・武術家・歌手のジャッキー・チェン氏主演の中国・UAE合作映画「ホーム・オペレーション」(Home Operation)の撮影が7月15日、シリアの首都ダマスカスの南に位置するハジャル・アスワド市(ダマスカス郊外県)内の廃墟で開始された。
監督を務める宋胤熹氏は最近になって自身のインスタグラムのアカウントに撮影現場の写真や映像を多数アップしていた。
映画は、2015年3月29日から4月6日にかけて、内戦下のイエメンで、中国海軍が在留中国人をはじめとする外国人や外交官らの退避を支援した作戦を題材としたもの。
中国海軍による初の海外での救出作戦では、中国人613人と15ヵ国の外国人279人が無事ジブチに避難した。
映画では、架空の国「ポマン」が舞台となっているが、宋監督は「弾丸の雨のなか、勇敢にも中国人全員を脱出させた共産党員の外交官の視点に立つものだ」と語った。
AFPや宋監督が公開した写真やビデオには、ハジャル・アスワド市に残る廃墟や戦車、イエメンの民族衣装をまとった俳優、シリア人エキストラ、中国の撮影スタッフの様子が収められいる。
撮影には冯飚在シリア中国大使らも見学に訪れたが、ジャッキー・チェン氏がシリアを訪問する予定はない。
ハジャル・アスワド市とは?
撮影現場となったハジャル・アスワド市は、首都ダマスカスの衛星都市の一つ。約85,000人が暮らしていたが、シリア内戦がこの町を廃墟へと変えた。
シリア内戦というと、独裁体制であるバッシャール・アサド政権と、「自由」と「尊厳」の実現をめざす「シリア革命」の担い手である市民との戦いと喧伝されることが多い。だが、現実は、映画のように単純ではなく、過剰一般化された勧善懲悪では語り得ない。
ハジャル・アスワド市も例外ではない。
同市は、ダマスカス県のカダム区、タダームン区、ヤルムーク区、ヤルムーク・キャンプ、ダマスカス郊外県のヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市などとともに、2011年3月にシリアに「アラブの春」が波及した当初から抗議デモが発生した場所の一つで、2012年半ばまでに政府の支配を脱し、反体制派が掌握するところとなった。
だが、同地は、主に三つの理由で未曾有の混乱のなかにその身を置くことを余儀なくされた。
第1の理由は、同地の反体制派の構成だ。この地域では、シリアのアル=カーイダとして知られるシャームの民のヌスラ戦線(現在の組織名はシャーム解放機構)が大きな勢力を持ち、反体制派を主導していただけでなく、イスラーム国も有力だった。
イスラーム国は2015年4月頃から徐々に勢力を拡大し、タダームン区、ハジャル・アスワド市を手中に収めていた。ヌスラ戦線は、シリア軍と激しく戦うイスラーム国の動きを当初は黙認し、ヤルムーク区やヤルムーク・キャンプを分有していた。だが、2016年4月、イスラーム国が増長し、キャンプ内での支配を拡げ、ヌスラ戦線をキャンプ西部に追いやり孤立化させると、対立が絶えなくなった。同地では、シリア軍、ヌスラ戦線が主導する反体制派、イスラーム国が三つ巴となって抗争を繰り広げることになった。
第2の理由は、シリア軍への武装抵抗を停止した反体制派がいたことだ。この地域は2012年半ば以降、シリア軍の砲撃や包囲に苦しんでいたが、このうちヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市の反体制派は2014年2月に政府との和解に応じることで、困難を打開しようとした。これにより、ヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市に限って、戦闘は回避され、政府支配地域への往来や物資搬出入が許可された。
シリア版「キャンプ戦争」
そして第3の理由はシリア最大のパレスチナ難民キャンプであるヤルムーク・キャンプが存在したことだ。シリアには、パレスチナ難民キャンプが15あり、その人口は「アラブの春」の波及以前は約49万人に達していた。そのなかで最大のキャンプが16万人を擁するヤルムーク・キャンプだった。これらのキャンプはシリア内戦によって被害を受け、11万人以上が国外に避難した。破壊がもっとも激しかったヤルムーク・キャンプでは、街は瓦礫と化し、8万人が死亡、人口も18,000人にまで減少していた。
シリア内戦のなかで、パレスチナ人はシリア政府に与するか、反体制派に与するかの岐路に立たされた。パレスチナ自治政府を主導していたハマースは、シリア政府との絶縁を選び、首都ダマスカスに置いていた本部を、反体制派を支援していたカタールに移転させた。
これに同調したのが、ハマースに近いアクナーフ・バイト・マクディス大隊だった。ヤルムーク・キャンプ内に200人の戦闘員を擁していたこの組織は、シャーム解放機構、イスラーム軍などと連携し、シリア軍に対峙した。
これに対して、PFLP-GC(パレスチナ解放人民戦線・総司令部派)、ファタハ・インティファーダ、PPSP(パレスチナ人民闘争戦線)は、シリア政府との共闘という長年にわたる姿勢を変えなかった。キャンプ内に700人の戦闘員を擁していたこれらの組織は、サーイカ(人民解放戦争前衛)、PLO(パレスチナ解放機構)の軍事部門であるパレスチナ解放軍、クドス旅団などとともに、反体制派やイスラーム国と戦った。
パレスチナ難民キャンプ、なかでもヤルムーク・キャンプでは、シリア人どうしが軍と反体制派に分かれて戦うだけでなく、パレスチナ人どうしも血を流し合い、シリア版「キャンプ戦争」とでも呼ぶべき惨状が生じた。
イスラーム国台頭がもたらしたパレスチナ民兵の糾合
こうした凄惨な事態に終止符が打たれるきっかけを(期せずして)与えたのは、イスラーム国だった。前述の通り、イスラーム国がヌスラ戦線の黙認のもとに2015年4月にヤルムーク区とヤルムーク・キャンプで勢力を増すと、アクナーフ・バイト・マクディス大隊は、ほかのパレスチナ諸派との対立を解消し、キャンプ奪還に向けてシリア軍と共闘するようになったのである。
その後、2017年3月になると、シリア政府は同地の反体制派に和解と退去のいずれかを迫り、事態収拾に本腰を入れるようになった。交渉相手には、イスラーム国も含まれた。イスラーム国の戦闘員退去に向けた折衝は、同年5月に既に行われたが、当時は奏功していなかった。
反体制派、イスラーム国双方との協議はうまくいくかに見えた。シリア軍はイスラーム国への攻勢を強めることで、反体制派に力を誇示、戦闘員とその家族の退去を認めさせることに成功したのだ。3月13日、カダム区で活動を続けてきた戦闘員とその家族約1,000人がバスで、ヌスラ戦線が主導する反体制派の本拠地であるイドリブ県とトルコの占領下にあるアレッポ県北部に移送された。しかし、これが裏目に出た。イスラーム国は3月15日、シリア政府との停戦に合意しておきながら、反体制派の退去に乗じて20日にカダム区に侵攻、これを制圧したのである。
シリア軍が最終決着に向けて攻勢を強めたのは4月半ばだった。シリア軍はイスラーム国とヌスラ戦線が分割支配するヤルムーク・キャンプ、そしてイスラーム国が掌握していたハジャル・アスワド市への砲撃と爆撃を強化、パレスチナ民兵とともに地上部隊を進攻させたのである。
ヌスラ戦線は4月28日にとうとう停戦を受け入れ、同30日にイドリブ県に家族とともに退去した。
シリア軍とパレスチナ民兵は、その後もイスラーム国に対して攻撃を続け、5月3日にはその支配地をヤルムーク・キャンプとハジャル・アスワド市一帯に二分、5日にはハジャル・アスワド市南部の街区、13日には同市北部地区を制圧した。最終的に、イスラーム国は19日、戦闘員とその家族の退去を受け入れた。彼らは21日に同地を後にし、シリア東部へと向かった。
和解に応じていた反体制派支配地域も消失
こうした動きと並行して、シリア政府は、ロシアを仲介者として2014年2月に和解に応じていた反体制派にも和解か退去かを迫っていった。
ロシアは4月24日、ヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市に留まっていた反体制派に、イスラーム国とヌスラ戦線との戦闘にシリア軍やパレスチナ民兵とともに参戦すること、そしてこれと合わせてシリア政府と「完全」和解し、支配地域を引き渡すこと、これが受け入れられない場合、同地から退去することを求めた。
反体制派は4月29日にこれを受諾し、シリア政府との和解を拒否する戦闘員とその家族は5月10日までにトルコの占領下にあるアレッポ県ジャラーブルス市一帯に退去した。
苦肉の策でもある誘致
こうして、2017年半ばまでにハジャル・アスワド市を含む首都ダマスカス一帯はシリア政府の支配下に復帰した。だが、欧米諸国がシリアへの経済制裁を続けるなか、戦闘が終結したハジャル・アスワド市を含むシリア各地での復興は必ずしも順調とは言えない。新型コロナウイルス感染症の拡大やロシアによるウクライナ侵攻はこれに拍車をかけている。
「ホーム・オペレーション」の撮影現場誘致は、シリアの国際社会への復帰、欧米諸国と一線を画す諸外国との親密な関係をアピールすることが狙いである一方、こうした困難な状況下での苦肉の策でもある。