「どうする家康」に再登場、家康の二男秀康が継いだ結城氏とは
22日の「どうする家康」に、石田三成を佐和山に送る護衛として岐洲匠が演じる結城秀康が登場した。
久しぶりに登場した秀康は家康とお万の方の間に生まれた於義伊で、徳川家ではなく、お万の実家である知立神社の神官永見家で養育されていた。
長男信康が自刃していたため本来ならば徳川家の跡取りとなるところだが、お万の方が正妻築山殿の承認を得ていなかったことから母子ともに追放されたからだ。
しかし、小牧・長久手合戦で秀吉との和睦の条件として徳川家に連れ戻され、秀吉に養子として差し出された場面以来の登場である。養子とはいうものの、実情はほぼ人質である。
於義伊はこの後数奇な運命をたどり、この時点では関東の名家結城氏の名跡を継いで秀康と名乗っていた。
結城氏のルーツ
この結城氏は当時は落ちぶれてはいたものの、本来は関東を代表する名家であった。その祖は昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した結城朝光。朝光は源頼朝の乳母であった寒河尼の子で、頼朝の烏帽子子(えぼしご)として元服している。
実父は下野の豪族小山政光で、下総国結城郡の地頭となったことから結城氏を名乗っていた。「鎌倉殿の13人」ではモデル出身の高橋侃が演じていたが、実際『吾妻鏡』建久六年三月の条には「容貌美好」と記されているように、「イケメン」だったらしい。
朝光は梶原景時とトラブルとなり、ささいなことから景時に讒訴されると、逆に三浦義村らと景時を糾弾。すると、とことん御家人に嫌われていた景時を弾劾するために、一夜のうちに66人もの有力御家人が結集して景時は鎌倉を追放され、翌年には一族が駿河国で討たれて有力御家人としての梶原氏は滅亡した。
朝光は陸奥国白河荘(現在の福島県白河市)にも所領を与えられ、以後、本家の下総結城氏と庶流の白河結城氏にわかれて、ともに戦国時代まで続いた。
秀康が継いだのは本家の下総結城氏である。
下総結城氏
下総結城氏は鎌倉時代には幕府の有力御家人として活躍、室町時代基光は小山氏にかわって下野守護となり、結城氏の全盛時代を築いた。
その後、結城合戦を起こして敗れたり、内紛があったりしたものの、政朝のときに戦国大名への脱皮に成功、政朝は結城氏中興の祖といわれる。その子政勝の頃には北関東の有力大名にまで成長した。
政勝の跡は小山高朝の子晴朝が継いだが、北条氏と上杉氏という二大勢力の狭間で衰退した。しかし、晴朝はいちはやく豊臣秀吉に通じ、天正18年(1590)の小田原攻めでは秀吉に呼応して北条氏を攻め、豊臣政権下でも北関東の有力大名として認められた。このときに秀吉の養子となっていた秀康(於義伊)を養子に迎えている。
その後の秀康
関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後秀康は越前北ノ庄(現在の福井市)に移って67万石となり、その際に松平氏に改称したとされるが異論もある。慶長12年(1617)に34歳で死去した。
跡を継いだ嫡男が、越前騒動を起こして小説などでおなじみの松平忠直である。