陰謀論としての真珠湾奇襲攻撃と山本五十六
フーテン老人世直し録(680)
極月某日
日本軍による真珠湾奇襲攻撃から81年目の7日(日本時間8日)、海底に戦艦アリゾナが眠る真珠湾の公園で戦死者を追悼する式典が行われ、バーネット米ハワイ方面海軍司令官は「戦火を経て育まれた日米両国の友情は偉大な遺産である」と述べた。
日本の「卑劣な騙し討ち」によって始まった太平洋戦争は、米国の圧倒的な軍事的勝利に終わり、日本を占領支配した米国は、軍国主義と封建主義の日本を民主化して平和主義に変え、今では日米同盟によって両国は強い絆で結ばれている。
これが米国人の考える真珠湾奇襲攻撃から始まる成功ストーリーである。しかし「卑劣な騙し討ち」は米国人の脳裏に深く刻み付けられていて、米国が日本によって優位を脅かされると必ずそれが顔を出す。
奇襲攻撃から節目となる50年目の1991年、米国メディアは「パール・ハーバー50年」に合わせ、日本軍の奇襲攻撃を米国人に思い起こさせる報道を大々的に行った。その前年に日本の企業や資産家が米国の象徴とされる不動産や企業を次々買収したからである。
三菱地所はマンハッタンの中心部にそびえるロックフェラー・センターを、故横井秀樹氏はエンパイア・ステート・ビルを、ソニーがコロンビア映画を、松下電器がユニバーサル映画を買収した。米国メディアはそれを真珠湾奇襲攻撃になぞらえた。
しかし絶好調だった日本経済が転落に向かうのもその頃で、1989年に4万円弱の史上最高値を付けた株価は下落の一途をたどり、世界の企業の時価総額ベストテンに日本の銀行が6社も名を連ねたが、今や銀行は見る影もなくなった。50位にトヨタが入っているだけだ。「失われた時代」は今も続いている。
経済でも軍事でも米国が優位に立つ昨今では、米国の要求通り日本は専守防衛の基本を変更し、「反撃能力」を保有して米国の期待に応えようとする。そうなったから真珠湾奇襲攻撃は「友情を育んだ偉大な遺産」と言われるわけだ。
ところで真珠湾奇襲攻撃から始まる成功ストーリーはその通りなのだろうか。真珠湾奇襲攻撃には様々な陰謀論が付きまとう。それも荒唐無稽と言って片づけるわけにはいかない陰謀論である。
奇襲攻撃を考えたのは連合艦隊司令長官山本五十六だが、山本は奇襲攻撃の2年後に戦死したため、平民でありながら国葬の対象となり、今でも英雄視されている。しかしなぜ山本は真珠湾奇襲攻撃を考えたのか、フーテンには釈然としないところがある。
実は日米戦争が奇襲攻撃から始まり、米軍の勝利で終わるストーリーの小説や論考は、日露戦争後に数多く出版されていた。米国のセオドア・ルーズベルト大統領は、日本海海戦で日本海軍がロシアのバルチック艦隊を撃破したことに喜び、ポーツマス講和会議を主導するが、その頃から日米戦争の可能性も考えていた。
米海軍は日本との戦争作戦計画「オレンジ・プラン」の作成に着手する。そして1910年代には米国でも日本でも「日米戦争」をテーマにした未来戦記物が続々出版された。1925年に出版された英国の海軍史家ヘクター・バイウォーターの「太平洋戦争―日米関係未来図」は、日本の奇襲攻撃で戦争が始まり米国の勝利に終わる内容だが、日米の軍事指導者の多くがこの本を読み影響されたと言われる。
バイウォーターが書いた奇襲攻撃の目標は米国の植民地フィリピンだが、米軍の中には真珠湾奇襲の可能性を主張する者もいて、1932年には模擬訓練が行われ、日本の奇襲が成功する結果がでて、この演習の模様はホノルルの日本領事館から日本本国にも報告された。
山本はバイウォーターの著作を読んで勉強していたと言われる。日本が負ける結論を知りながらなぜ真珠湾奇襲を考えたのか。山本は親友に「米国民の士気を失わせるため」と言ったが、結果はまるで逆になった。その直前まで戦争に反対だった米国民を立ち上がらせ、卑劣な騙し討ちに対する報復として「リメンバー・パール・ハーバー」を叫ばせた。
その時点で、欧州でのドイツ対英仏ソの戦争も、日米戦争も結果は明白だった。英国首相チャーチルは真珠湾奇襲を知って対独戦争の勝利を確信した。しかも真珠湾にいたはずの空母2隻は直前にミッドウェイに移動し、そのこともホノルルの領事館から日本本国に報告されていた。
従って攻撃は成功したが、米国の主要な戦力は損傷を免れた。にもかかわらず真珠湾攻撃の成功に日本中が沸き上がり、日本国民は戦争の勝利を確信した。ところが翌42年4月に米空母ホーネットから飛び立った爆撃機が首都東京を空襲する。これに驚いた山本はミッドウェイの米軍基地攻撃を敢行し、待ち受けていた米軍に完敗した。これによって戦争の帰趨は決した。
真珠湾奇襲攻撃にまつわる陰謀論とは、米国は「卑劣な騙し討ち」というが、ルーズベルトは本当に奇襲攻撃を知らなかったのかという点である。米国民は戦争に反対だったからルーズベルトは大統領選挙で「参戦しない」と公約した。そのため知っていたにもかかわらず、奇襲攻撃を許して国民に参戦を認めさせようとしたのではないかと考えられるのだ。
山本は41年1月に大西瀧次郎少将に真珠湾奇襲攻撃の作戦立案を指示した。大西はフィリピンに戦力を集中すべきと主張して真珠湾奇襲攻撃に反対したが、山本は頑として受け入れなかった。海軍軍令部も反対したが、山本はそれなら連合艦隊司令長官を辞めると脅して真珠湾奇襲攻撃にこだわった。
その1月に駐日ペルー公使リカルド・シュライバーが「日本軍部が真珠湾攻撃を準備している」との情報を日本人を含む複数の筋から得て駐日米国大使館に伝えた。その情報は米海軍にも伝えられたが、海軍情報部はデマだと考え信用しなかった。
007ジェームズ・ボンドのモデルと言われるドゥシャン・ポポヴという英国とドイツの二重スパイが、FBIに対し真珠湾攻撃の可能性を強く主張した。FBIのフーヴァー長官がその情報をルーズベルトに伝えたかどうかは不明である。
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