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オリンピック野球 選手も見てる者も苦しかったその背景 「一回性の物語」をプロに背負わせた辛さ

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

オリンピックの野球競技は、とにかく見ていて疲れる

オリンピックの野球競技は、日本が優勝して終わった。

ほっとしている。

女子のソフトボールと、男子の野球、ともに東京大会で限定的に復活して、優勝できた。

よかったとおもう。

決勝の相手はどちらもアメリカだった。なかなか厳しい戦いだった。

オリンピックの野球競技は、それこそ1984年ロサンゼルス大会での公開競技のときからずっと見ているが、とにかく疲れるのだ。

特にプロ選手でチームを組むようになってからは、見ていてほとほと疲れるようになった。これほど見ていて疲れる野球試合も珍しい。

本気で応援しているからというのもあるが、でも、理由はそれだけではないだろう。

選手も監督もかなり無理をしているようで、見ていて疲れる。

ソフトボールでは「一塁へのヘッドスライディング」が多発する

ソフトボールを見ていてもそこまで疲れない。

ソフトボールと野球には少し差がある。

女子ソフトボールの決勝では、日本選手は何回もヘッドスライディングをしていた。

それも、内野にゴロで間に合うか間に合わないかぎりぎりのとき、一塁ベースにヘッドスライディングをする「一塁へのヘッドスライディング」である。

けっこう驚いた。

もっとも印象に残ったのは、四回の日本の攻撃。

二死で三塁・一塁、打者は9番・渥美。メガネの似合う細身のお姉さんだ。

渥美選手の劇的な「一塁ヘッドスライディング」

渥美は、セカンドへゴロを打って、微妙なタイミング、懸命の走りで足が追いつかないという感じで、倒れ込むように一塁へ頭からツッコんだ。

セーフ。日本先制。1対0。

劇的な瞬間だった。

ツーアウトだから、渥美が間に合わなかったら点は入らない。ヘッドスライディングしてセーフ、一点先制、という劇的なシーンを久しぶりに見た気がする。だいたいそういうのは高校野球でしか見かけない。

これがもっとも印象に残った決勝戦のヘッドスライディングだった。

ソフトボール決勝での「一塁ヘッドスライディング」たち

決勝戦では「一塁ヘッドスライディング」はあと三回あった。

まず一回表、二死三塁で打者は山本、ショートゴロで懸命に走って、ヘッドスライディング、でもアウトでチェンジ。点が入らなかった。

また六回表の日本の攻撃、ノーアウト一塁、打者は市口。

送りバントのシーンで、バントではなくバットを止めて当てただけで転がした。ほぼバントである。うまい打撃だ。セーフティバントのような形になって懸命に走る市口は、一塁へ頭からスライディング。でも惜しくもアウトとなった。走者は進塁。ワンアウト二塁。

次打者アウトで二死になってランナーは二塁のまま、バッターは山田。彼女は初球を打ってショートゴロ、そのまま一塁へヘッドスライディングしたがアウト、チェンジとなった。

四度も「内野ゴロで一塁へヘッドスライディング」があったのだ。しかも決勝戦だ。

女子ソフトボールは、すごく「一塁へのヘッドスライディング」をするもんなのだ、と感心して見ていた。

野球は本塁でしかヘッドスライディングがない

いっぽう、男子野球では「一塁へヘッドスライディング」はなかった。

ふつうはない。まあ、そりゃそうだろう。

本塁ヘッドスライディングはあった。

決勝戦での日本の2点目は、山田哲人の本塁ヘッドスライディングだった。

8回裏、ワンナウト二塁で走者は山田、三番吉田のヒットで三塁へ進み、センターからの返球が逸れたので、そのまま山田哲人はホームへ頭からすべり込んで、セーフ。2点目が入った。

山田のヘッスラは見事だったが、でもまあ女子ソフトの「一塁へのヘッドスライディング」とはちょっと意味がちがう。

プロがやらない理由

ふつう、プロ野球の試合では、内野ゴロを打った選手が一塁へヘッドスライディングするということはまず起こらない(誰かがやるとニュースになったりする)。

そもそも駆け抜けたほうが早いと言われているので、そういう無駄な動作はしないのだ。

それに一塁へのヘッドスライディングは怪我をしやすい。

タッチが不要で、相手選手はとにかくベースを踏もうとする。そのときに手を踏まれないともかぎらない。だから避ける。それがプロである。

プロにとっての試合は、仕事であり、日常である。

サラリーマンが会社に行くのや、ラーメン店店主が店を開けるのと同じことである。

いつもどおりのことをやる。この試合は特別だから、と変なことをしない。

高校野球は「一塁ヘッドスライディングして、選手引退」

一塁へのヘッドスライディングといえば、高校野球だろう。

甲子園で、もしくは甲子園を目指す地方予選で、内野ゴロで間に合わなさそうなとき、高校球児は猛然と頭から一塁へつっこんでいく。それはよく見かける。

頭で想像するもっとも典型的な「一塁ヘッドスライディング」は、9回ツーアウトからの最後の打者、ときに控え選手の代打、内野ゴロを打って確実にアウトだとわかっていても、頭からすべりこむ。そういうシーンである。

ヘッドスライディングするもスリーアウト、試合終了。打者走者はそのまま一塁ベースを抱えてうずくまっている。

それが、わたしの想像する典型的な「高校球児の一塁ヘッドスライディング姿」である。

コーチボックスにいた選手に肩を叩かれ、立ち上がって、土まみれのままホームベース付近に集まって、うなだれたまま整列する。そういう姿である。

これを最後に部活は終了、選手引退。

そういう物語性と「一塁ヘッドスライディング」がセットになっている。まあ、見ているほうが勝手に想像しているセットでもあるが、やっている選手もそう見られているという意識はあるだろう。

「一回性の物語」のなかでプロが戦う厳しさ

プロ野球選手は、今日の試合で負けても、また明日がある。一週間後も試合があって一ヵ月後もある。生活である。

プロの選手は「一回性の物語」のなかには住んでいない。

物語性を帯びた行動はしない。

ソフトボール選手はそういう意味では高校球児にややメンタリティが近かった気がする。

一回性を重んじるということでもあり、別の言い方をするなら「アマチュアリズム精神」で戦っている、ということになるだろう。

プロフェッショナルの集まった男子野球選手とはかなりちがう。

オリンピックの野球競技を見ていつも苦しい感じがするのは、それはこの「一回性の物語のなかで展開している競技」に「毎日仕事として競技をしているプロ選手が出場している」からではないかとおもう。

おそらく「どんどん一塁へヘッドスライディングできる精神」がオリンピックに適しているのではないか。

プロ野球選手にそれはなかなかむずかしい。

プロの選手はずっと「旅興行」を続けている

プロというのは「試合を見世物(エンタメ)興行として売り出し、それらの収入によって経営している母体があり、そこから金をもらっている」という存在である。

ソフトボールにはそういう機構はなく、ソフトボール選手にプロはいない。

プロ野球選手は全国を旅興行で廻っている。わりと行く先は固定されているが、地方興行を繰り返していることには違わない。(半分は本拠地、残り半分は他地方)

ときどき誤解されているが、プロ野球選手とは、単に野球のうまい人たちの集まりではない。もちろんうまくなくちゃ話にならないが、それより「一年の多くの時間を旅興行に費やすのに耐えられる性格と体力を持っている人たち」の集まりなのだ。

かなり特殊な職能集団である。

彼らはそういう職能集団独特の雰囲気を身につける。

高校野球の側からみれば、かなり「スレている」姿だと言えるだろう。

純粋さを売り物にはしない。プロらしい振る舞いがある。

オリンピックはM−1大会ではない

オリンピック競技は、いまではプロ選手の出場も可能であるが、基本はアマチュアの大会である。

各国で独自に「報奨金」を出すところが多いが、それは「自国の選手のモチベーションを上げて国威高揚につなげたい」という各国の勝手な目論見から出されている金であって、主催者は金を出していない。

メダルはくれるが、賞金はくれない。

オリンピックが賞金を出す大会なら、表彰台でメダルとともに花ではなくて「現金の束」をくれてもいいことになる。もしくは「1000万円」と書いた巨大なパネルをくれてもいい。

でもそんなことは起こらない。

懸賞金のでる大相撲ではないし、M−1大会でもないからだ。

与えられるのはメダルだけというのは、名誉しか受け取っていないということになる。

お金のために戦っていない「職業」選手

そのアマチュアの大会に、日本有数のプロ選手をまとめて出しているのが、男子「野球」競技である。

「もともと社会人野球の選手たちの出る大会を、プロ選手が奪った」という意識もあるらしく、そこにも奇妙な責任感が発生している。

名誉のために戦っている。

オリンピックに出場するときは、気持ちはかなりアマチュア精神寄りになっているはずだ。

メダルを取れば報奨金がもらえるが、日本では金メダルで500万円である。

オリンピックに出ている選手は、たとえば6番センター柳田選手の推定年俸は6億円で、だいたい三日分の日給でしかない。報奨金めあてでは出ていないだろう。

「お金のために戦っているのではありません」というのは立派なアマチュア精神である。

でも、身体はプロである。

ずっとプロとして鍛えてきて、プロとして振る舞って生きている。

集められているのも、プロでの実績のある選手ばかりである。

動きはみんなプロだ。アマチュアな動きはしない。

だから一塁ヘッドスライディングはしない。

そこは徹底している。

精神と身体の乖離によってどんどん苦しくなる

明確に、精神と身体が乖離している。

身体までアマ精神に戻せたら楽だろうけど、それができない。

精神のめざす方向と、身体の動きが合致していないまま、無理して動き続けるというのは、あまりいい状態ではない。人が破壊されるのはそういう状況に長くいるときである。

だから選手は苦しそうであり、その苦しさの頂点に監督がいて、見ているほうもなんかのびのびとは見ていられなくなるのではないか。

いまあらためてそう感じる。

「プロ選手による日本野球ドリームチーム」が東京オリンピックまでは、なかなか優勝できなかったのは、この精神と身体の分離に原因があったのではないだろうか。

東京オリンピックは、地の利に加えて「一回きりの復活」という一回性が、何かしら日本チームにいいように働いたように見えた。

優勝できてよかったと心底おもう。

でも、試合をみてずっと胃が痛くなるような苦しい展開だったのは、昔と変わらない。優勝して、やったーというよりも、「あーよかった、よかった」という安堵のほうが強かった。

全力疾走で守備交代をすれば楽になる

だから、プロの集まりでも「一塁へヘッドスライディング」が抵抗なくどんどんできるチームだったら、勝っても負けても気分がオープンで、いまよりは楽だったのではないだろうかとおもってしまう。

「一塁ヘッドスライディング」は戦術として認められない、というのなら「守備交代のときの外野手は息が切れても全力で走る」ということでもいいし、「打席に入るたびにヘルメットを脱いで一礼する」でもいいのだ。

そういう「アマチュア」精神を取り入れればたぶん楽になったのだろうとおもう。

でもやらない。まあ、できないだろう。

アマチュアは、そういうことをやってもまったく疲れないが、プロで永年やってきた選手は、そんなことをしたらとても疲れてしまうとおもう。

精神はアマに戻せても、プロの肉体は戻ってくれない。

ワルキャラを演じれば楽になったかもしれない

あとできる方策としては、無理して「偽悪キャラ」を演じる、というくらいだろうか。ただの夢想だけど。

「オリンピックに勝ったらいくらもらえるんだい3億か5億か」と繰り返し無意味な発言をするバカキャラがいて、うしろで「そんなもらえねえって、何度いったらわかるんだ」と言ってくれているキャラもいて、「ふふ、バカだねえ、金じゃねえんだよ、勝つといろいろいいことがあるんだよ、おっと、それは何だかは言えねえけどね、ふふ」というキャラがいて、「ふん、メダル? くだらねえな、ほんとおまえらくだらねえよ、でもまあ、そんなに言うなら取るだけならおれが取ってきてやってもいいぜ」というキャラがいる。

そういう偽悪的なキャラなら「プロなのにアマチュアの大会に出る」というねじれに耐えられる気がする。

ついでに海賊上がりの隻眼のコーチがいて、いつも骨付き肉ばかり食べてる太っちょのマネージャーがいる。連絡係はなぜかいつも犬と一緒に走りまわっている。

そんな混沌と不統一を演じつづけ、いつもふざけているけど、いざというときはものすごく頼りになる。

そういうことでもしないと「プロがアマの試合に出る」ということのバランスが取れない気がするのだ。

もちろんそんなことが不可能なのはわかっているんですが。

吉良邸に討入る義士のようなサムライジャパン

日本のサムライたちは「楽になってはいけない」とおもいこんでいるようで、みんな悲愴だった。吉良邸に討入りにいく義士を眺めているようであった。

見ているものまでその悲愴感に包まれてしまう。

そして、

決死の覚悟でいるのに、「一回性の物語のなかの行動」が取れない。

気持ちは悲愴だが、高三の夏の野球のようには戦えない。

だから、余計、つらくなってしまう。

たぶん視聴者のなかには、そのつらさがいい、という人もいるのかもしれない。

でもつらいとおもって見ている人のほうが多いように感じる。私はつらかった。

プロ野球選手によるオリンピックチームが重苦しいのは、2004年のむかしからそうで、いまでもそうである。

東京で勝ててよかったと、ほんとうにおもう。

切腹しなくてすむ。

GG佐藤とかほぼ切腹させられてましたからねえ。

金メダルが取れて本当によかった

金メダルが取れてよかった。

オリンピックでの野球は、とりあえずしばらくはいいかな、というのが、あまり大きな声では言えないが、実のところの正直な個人的な気持ちである。

ソフトボールはとてもオリンピック向きなので、そっちは続けてあげればいい、とおもう。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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