放棄されたシリア・イドリブ県のシーア派の町でアル=カーイダどうしの抗争激化
放棄されたフーア市とカファルヤー町
シリア北西部のイドリブ市の約6キロ北東に位置するフーア市とカファルヤー町。シーア派(12イマーム派)の住民が暮らす数少ない町だった。
2015年3月にシャームの民のヌスラ戦線(現在のシャーム解放機構)、シャーム自由人イスラーム運動(現在は国民解放戦線所属)、シャーム軍団(現在は国民解放戦線所属)などからなるファトフ軍がイドリブ県全域を制圧して以降も、二つの町は抵抗を続け、政府、そしてイランからの支援を受けて、包囲を耐え抜いた。
2017年3月、カタールとイランの仲介によって、シリア軍は、シャーム解放機構やシャーム自由人イスラーム運動が主導する反体制派と、二つの町とダマスカス郊外県ザバダーニー市に籠城する戦闘員およびその家族の「住民交換」を合意した。これを受け、ザバダーニー市の戦闘員らがイドリブ県に移送される一方、フーア市とカファルヤー町の住民は政府支配地に避難し、ダマスカス郊外県のハルジャラ村郊外に建設されたキャンプに収容された(「アレッポ・モデルの停戦:退去か強制移住か/シリア情勢2017:「終わらない人道危機」のその後(12)」を参照)。
退去した戦闘員と家族の移住先となったフーア市とカファルヤー町
住民を失ったフーア市とカファルヤー町は、反体制派によって接収された。
そして、2017年から2018年にかけて、ダマスカス県東部(ジャウバル地区など)、ダマスカス郊外県東グータ地方、ヒムス県北部(ラスタン市など)、ダルアー県、クナイトラ県の反体制派支配地(緊張緩和地帯第2、3、4地区)が政府の支配下に復帰するなか、政府との和解を拒否した戦闘員と家族の移住先の一つに指定された。
住民による抗議デモ
そんなフーア市とカファルヤー町が、アル=カーイダ系組織どうしの抗争で揺れている。
英国を拠点とする反体制系NGOのシリア人権監視団によると、カファルヤー町で7月5日、移住した住民たちが、ウズベク人戦闘員など外国人戦闘員の退去を求める抗議デモを行ったというのだ。
デモは、ウズベク人武装集団が移住民に退去要請を行ったのを受けたもの。
ウズベク人武装集団はまた、カファルヤー町一帯に増援部隊を派遣し、「住民」からの攻撃に備えたという。
シリア人権監視団はこのウズベク人武装集団の詳細については明らかにしなかった。
シャーム解放機構とフッラース・ディーン機構の衝突再燃
だが、ほどなく、カファルヤー町の緊張状態がシャーム解放機構とフッラース・ディーン機構の抗争の一端をなしていることが明らかになった。
両者は、いずれもアル=カーイダの系譜を汲む組織だが、3月5日にロシアとトルコがイドリブ県を中心とする緊張緩和地帯第1ゾーン(いわゆる反体制派の「解放区」)で停戦に合意し、アレッポ市とラタキア市を結ぶM4高速道路の南北に総幅12キロの安全回廊を設け、その通行を再開させようとしたことをめぐって対立を深めていた。
シャーム解放機構は、トルコの求めに応じ、M4高速道路沿線から部隊を撤退させたのに対して、フッラース・ディーン機構は、他のアル=カーイダ系組織とともに「堅固に持せよ」作戦司令室を結成するなどして、徹底抗戦の姿勢を示したのである。
6月23日から26日にかけてのイドリブ市西一帯での戦闘で、シャーム解放機構がフッラース・ディーン機構を軍事力で圧倒し、「堅固に持せよ」作戦司令室に解体を強いることで決着していた(「シャーム解放機構は「堅固に持せよ」作戦司令室を武力で圧倒、「シリア革命」の覇者としての存在を誇示」を参照)。
だが、反体制系サイトのZamanalwslやStepagency-syによると、フーア市にあるフッラース・ディーン機構の司令官の自宅で7月6日夜、爆発が発生し、自宅にいた司令官1人が死亡、家族1人が負傷したのだ。
死亡したのは「アブー・ハーリド・トゥルキー」として知られるムハンマド・ハーリドで、フッラース・ディーン機構のメンバーに重火器の使い方を教える教官を務めていた人物だった。
また、負傷したのは「アブー・ムワッハド」を名乗るハーリドの娘婿。彼はイスラーム法学者で、シャーム解放機構のメンバーだった。
爆発の直後、シャーム解放機構がアブー・ハーリドの自宅に押し入り、ハーリドや娘の持ち物、金品を略奪したことから、犯行はシャーム解放機構によるものだとの見方が強い。ただし、アブー・ムワッハドが犯行に関与していたのか、フッラース・ディーン機構の内通者として狙われたのかは不明。
なお、複数の情報筋によると、事件発生を受けるかたちで、シャーム解放機構とフッラース・ディーン機構がフーア市内で散発的に交戦、それぞれが戦闘員を派遣し、検問所を設置するなどして緊張が高まったという。
(「シリア・アラブの春顛末記:最新シリア情勢」をもとに作成)