Yahoo!ニュース

敗戦に際して潔く死ぬ勇気もなく、命乞いまでした情けない武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
壇ノ浦(関門海峡)。(写真:イメージマート)

 武将と言えば、敗戦に際して潔く死ぬ勇気があると考えがちである。しかし、そんな勇気もなく、ついには命乞いをした、平宗盛を取り上げることにしよう。

 久安3年(1147)、宗盛は清盛の三男として誕生した。治承5年(1181)閏2月に清盛が死去すると、すでに長男の重盛、次男の基盛が亡くなっていたので、宗盛が家督を継ぐことになった。しかし、清盛の死後、平家は坂道を転がるように衰退していった。

 寿永2年(1183)、源義仲が入京すると、平家は安徳天皇とともに都落ちした。その後、義仲は源義経らの率いる軍勢に討たれたが、義経らの軍勢は平家追討の手を緩めなかった。こうして迎えたのが、元暦2年(1185)3月の壇ノ浦の戦いである。

 壇ノ浦の戦いでは義経らの軍勢が攻勢を強め、もはや平家に勝算はなかった。知盛・経盛・教盛ら平家一門の面々は、もはやここまでと覚悟を決め、次々と入水した。武将として、潔く死を選んだのだ。

 ところが、宗盛は果敢に戦いを挑む覚悟もなく、ほかの平家一門の面々のように、入水するだけの勇気もなく、ただうろたえていたという。そこで、平家の武将の一人が宗盛の情けない姿を見かね、海に突き落としたのである。

 海に落ちた宗盛は、泳ぎがうまかったので、死ぬことはなかった。宗盛は海に浮かんでいるとき、「生きたい」と思うようになったという説もあれば(『愚管抄』)、生き恥を晒す覚悟を決めたのは、子の清宗のためだっという説もある(『平家物語』)。

 その後、宗盛は源氏の将兵に助けられた。同年4月、宗盛は子の清宗とともに鎌倉へ連行されたが、すでに平家の棟梁の宗盛は死罪が決定していた。同年5月、宗盛は源頼朝の前に引き出されると、命乞いをした。それは、平家の棟梁らしからぬ情けない態度だった。

 宗盛の情けない姿を見た御家人たちは、罵声を浴びせ、嘲笑したと伝わる(以上、『平家物語』など)。まさしく生き恥だ。同年6月、宗盛は子の清宗らとともに斬首され、その首は晒された。宗盛の死により、平家は滅亡したのである。

◎むすび

 宗盛が斬首されたのは事実であるが、海で器用にぷかぷか泳いだとか、頼朝に命乞いをしたというのは、文学作品の『平家物語』や編纂物などの記述なので、ことさら宗盛を貶めた印象が残るのも事実である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

渡邊大門の最近の記事