<ナチス時代の記憶を聞く> 祖父はドイツ軍兵士 伯母は少女同盟メンバーだった
◆過去を知る意味
私の父はよく戦争の体験を話してくれた。広島の被爆者で、原爆が落とされたときは6歳。爆心地から約1キロ離れた広島駅そばに家があった。爆風で家は倒壊したが、瓦礫の隙間で助かった。幼いころから聞かされてきた悲惨な話は、私がイラクなどの現場で戦争と市民を見つめる視点にもつながっている。
昨年、ドイツで難民問題を取材した際、通訳をしてくれたアルネ・ヒゲンさん(50歳)。私と同世代だが、これまで家族の戦争体験を聞いたことはなかったという。この夏、彼は実家へ帰った際、父に幼い頃の記憶を訊ねた。(玉本英子・アジアプレス)
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アルネさんの父親フリート・ウフォ・ヒゲンさん(79歳)は、ナチス政権下の1939年、北部ハンブルクに生まれた。この年、ドイツ軍はポーランドに侵攻した。ファシズムと戦争の暗い時代の始まりを感じ取った両親は、息子の名前をフリートと名づけた。デンマーク語で「平和」の意味だ。
フリートさんの両親はナチスに反対する左翼政党の支持者で、幼稚園の先生だった母親は、秘密警察ゲシュタポから仲間を守るために奔走したという。しかし印刷工の父親は、戦火が拡大するなかドイツ軍に召集され、フランスの戦線へ送られた。
そしてフリートさんの姉はナチズムを信奉し、ドイツ少女同盟(BDM)の地区リーダーにまでなった。カギ十字の小旗を家に飾ろうとしたのを見た母親は激怒し、その旗を窓から放りなげた。
戦時下の市民生活は困窮した。配給だけでは食べ物が足りず、フリートさんは年上の子どもたちと線路沿いを歩き、列車の積み荷からこぼれ落ちたジャガイモや、ストーブの燃料にする石炭を拾った。そこをイギリス軍の戦闘機が奇襲し、近所の子どもが死んだ。
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◆「吹き飛んだ手や足を見た」
ハンブルクでは大規模な空襲が続いた。死者4万人以上。ほとんどが一般市民だった。サイレンと爆撃機の音が響くたびに、母親に手を引かれ、走って防空壕へ逃げた。ある日、防空壕のそばに爆弾が落ち、フリートさんは吹き飛んだ人の手や足を見た。建物から炎が上がり、空はオレンジ色に染まった。親戚たちが命を落とした。今でも夕焼け空を見ると動悸がするという。
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その後、ナチス政権は崩壊、2年後、父はドイツ兵収容施設から戻ってきた。別人のような形相で「敗残兵は過酷な経験をした。多くが死んだ」とだけ言った。ユダヤ人についても、多くは語らなかった。身近な大人たちは「彼らに何か悪いことが起きているとは思っていたが、まさか虐殺までされているとは知らなかった」と口々に話した。
他方、アルネさんの母親側の家族はナチスを受け入れていた。
「ゲシュタポにおびえることなく普通に暮らすには、他に方法はなかった」という。
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◆「戦争が始まると 誰も逃れられない」
アルネさんは学生時代、ファシズムと差別が悲劇をもたらすと、繰り返し学んできた。
今回あの時代の状況を聞き、「いま、右派政党が台頭し、移民・難民への偏見が市民層まで広がることに危うさを感じる」と言う。
彼は、父フリートさんの言葉が忘れられない。
「戦争が始まると、誰もそこから逃れることはできなくなる」。
戦後73年。戦争を知る世代は少なくなった。過去を知ることは、自分たちの未来を見据えることにつながる。
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(※本稿は毎日新聞大阪版の連載「漆黒を照らす」2018年8月21日付記事に加筆修正したものです)