1980年代以降の日本の経済および企業の失敗の原因はこれだ…2冊の本の「裏メニュー」(下)
…前回からの続き…
江副氏への評価はいろいろとあろうが、一つだけいえることがある。それは、江副氏がいなくなっても、彼が創業したリクルートは、様々な紆余曲折を経ながらも、生き残り成長し、現在においても日本経済において確固たる地位を占めていることだ。
経営者が不在あるいはいなくなっても機能する組織こそが最高のマネージメントといわれることがある。また「ティール組織」という考え方が最近世界的にも注目を集めている。それは、「社長や上司がマイクロマネジメントをしなくても、目的のために進化を続ける組織のことだ。そのため指示系統がなく、メンバー一人一人が自分たちのルールや仕組みを理解して独自に工夫し、意思決定していくという特徴が見られる」(注1)組織のことである。
つまり、江副氏が創業したリクルートは、正にそのような組織であり、そのようなマネージメントがあった組織であり、創業者なしでは回らないかサラリーマン化したような日本の多くの企業とはかなり様相の異なる企業であったということができそうだ。だからこそ、江副氏はある意味潰され日本社会から排除されたが、企業としてのリクルートは、生き残り、現在も成長し続けているのであろう。
このように考えていくと、第二次世界大戦後の日本経済が急成長し固定化する(この時期はリクルートの創業期および成長期に重なる)よりももっと以前か、あるいは現在のようなプラットフォーマが世界の経済を握る少し前、つまり昭和20年(1945年)代かあるいは昭和60年代(1980年代の中頃)以降に、江副氏がもしリクルートを創業していれば、固定・構造化した日本経済に潰されることもなく、ICT時代の先駆的変革者となり、21世紀のプラットフォーマー界の指導者となり、リクルートも世界的なプラットフォーマーになっていたかもしれないのである(注2)。
要は、江副氏もリクルートも、ある意味で時代的に遅過ぎたのであり、ある意味で時代的に早過ぎだったということができるかもしれないのである。
最後に、本記事で取り上げた2冊の本の両方を兼ね合わせて考えていくと見えてくるもう一つの点を取り上げて、本論考のまとめとしたい。
それは、日本は、積極的に多様性を受け入れない社会、別のいい方をすると異なることや違うことをいかがわしいことと考え、なかなか受け入れない社会であるということだ。
プラットフォーム本にも出てくる、スティ-ブ・ジョブズ氏、ジェフ・ベゾス氏、マーク・ザッカーバーグ氏ら、今を時めく世界を代表するプラットフォーマの創業者は、今でこそ社会的に確固たる名声や評価を得ているが、その経歴は、正に我ままで、傍若無人であり、いかがわしく得体の知れない存在であったことが、同書には描かれている。そして、米国などでは、このような存在や異なることが評価され、またそれらの人材を支援し機会を与え、擁護し、成長させてくれる仕組みや環境が存在していることも、同書には描かれている。
他方、日本は、江副氏のようないかがわしく、異端の存在は、その存在が大きくなるとその存在を潰すような環境や力が生まれてくる社会であることが、江副本には克明に描写されている。
筆者は、このような観点について、次の2つの考え方を提示しておきたい。
起業したりイノベーションを起こしたりすることは、本来既存の枠を超えることあるいは変えることである。その意味からすると、起業や創業は、既存の枠の立場からすると「破壊」であり、「異端」であり、ある意味「いかがわしい」ものなのだ。
社会においてはその時におけるルールや決まり、基準は必要だし、基本的にそれを守らないといけない。ただ、ずっとその枠の中に留まっているだけでは、社会の変革や変化に応じた問題解決やイノベーションなどはできない。社会がイキイキと存続し、豊かになっていくためには、社会の変化や今後を見通して、新しいことに挑戦したり、取り組んだりすることも必要なのだ。その際には、既存の枠のギリギリの境界線上での対応や、枠の間隙を縫って違法でない動きをしたり、さらにある時には、その枠自体を変えるための動きも必要なのである。
アメリカのような社会は、歴史的にも「創ってきた」という要素が強い社会なので、そのような新しい試みや挑戦に比較的寛容だ。他方、日本は、歴史的にも、社会を創ってきたというよりも、国・地域という枠があり、その中に「社会」を押し込んで、維持・運営してきた面が強い社会であり、新しい試みや挑戦が、その存在が小さいうちはある程度許容されるのだが、ある規模以上に大きくなると抑えにかかる、あるいは潰しにかかる環境があるのだ。特に、前号でも述べたように、第二次世界大戦後の日本経済が完成し固定化した(あるいはそのなり始めた)時期は、日本社会・企業などの慢心・過信があるゆえに、その要素がさらに強まっていたと考えることができる。
これらのことが、アメリカではザッカ―バーグ氏らを生み、日本では江副氏らの異端児を潰してきた一因であるということができるのである。
もう一点は、日本の民主主義とも絡む問題である。別のいい方をすれば、上述のことは、日本は、民主主義の体裁を取りながらも、民主主義が機能しないこととも関連していると考えられるということである。
民主主義とは、社会には本来多種多様な意見・考え方あるいは価値観が存在することが前提であり、そのことが社会的に理解されており、評価されている仕組みであるということができる。そして、そのことは、社会の中に、様々な意見・考え方あるいはそれを有する人材が存在し活躍し、人的にも資金的にもある意味でサポートされるような環境や雰囲気があるということである。それは別言すれば、既存の立場や考えから外れていても、それをサポートしてくれる人材や資金さらには環境があり、時にそれらの既存の枠外の立場やその枠外の人材も、紆余曲折しながらも、時に社会的に評価されたり、時に助言やメンタリングを受けたり、資金的にも支援を受けられ、成長でき活躍できるということを意味するのである。社会的において多様性が評価され容認されていれば、たとえその社会が、ある程度固定化しても、異質なものが生まれ、成長できる余地は担保される。
他方、日本ではそのような環境はない。異端児は、力を得て大きくなると、特に高度成長期の終焉期あるいはそれ以降の時期には、潰されるか社会の中心から葬られたのである。
プラットフォーマー本にも書かれているように、FBのザッカーバーグなども、たとえ傍若無人でも、上述したような要素が社会的にあるので、アメリカでは支援者やメンターがいて、その成長を支えてくれる環境があるのだ。彼らが、もし日本に生まれていたら、確実にすでに潰されていたといっても過言ではないだろう。
このような観点からも、江副氏のような人材は、日本では、一時はある程度成功しても、その限度を超えると、潰される運命にあったということができるだろう。
以上のように考えていくと、大西康之氏の書いた当該の二冊の本から、その対象やテーマは非常に違っているのだが、実は日本の経済や企業が現在のような惨憺たる結果であることの理由や原因、つまり「裏メニュー」が見えてくるといってもいい過ぎではないように感じるのである。
そして、私たち日本人や日本社会は、自分達の今後の新たなる可能性を見いだしていくために、その厳しい現実を直視し、真摯に自己および現状を理解し、先人の経験や知見から真剣に改めて学び直し、異端や枠外への挑戦、またいい意味でのいかがわしさや不確実性などにもっと寛容でかつそれらを面白がる度量を持つべきであるということを、改めて再認識した次第である。
(注1)「ティール組織とは? その意味や事例、デメリットまとめ」(ビジネス+IT 2019年5月14日)から抜粋(https://www.sbbit.jp/article/cont1/35603)。
(注2)飽くまでも、「もし」の仮設に過ぎないが。