日本の近代化モデルからみえること
1.はじめに
沖縄科学技術大学院大学(OIST)は、最近その先進性と短期的な成果に注目が集まっている。筆者は、以前からその点に注目し、そのような成果を生み出している理由を知るためにOISTキャンパスに研究滞在した。その経験から、OISTはある意味で偶然から創設されたが、その成果が生まれたさまざまな理由や仕組みがあるから、そのような成果が生まれていることを理解できた。そこで、そのことをいくつかの記事等で発信したが、それらの理由や仕組みの多面性や重層性から、短い記事等では十分に説明しきれないことを実感した。そこで、拙著『沖縄科学技術大学院大学は東大を超えたのか―日本を「明治維新の呪縛」から解放し、新しい可能性を探求する―』を執筆、上梓した。
できるだけ多くの方々に、同書を読んでいただき、OISTについて学んでいただき、日本の今後の可能性や進展を考えていただきたいと思う。
筆者は、同書を執筆していくなかで、OISTは、明治維新以降の日本の発展や近代化モデルにおいて、ある意味で対極にある存在であることに気づいた。その結果として、日本における社会の発展や近代化のモデルについて考える必要があることに気付いた。
そこで、本記事は、上記の拙著の補遺として、論じていくものである。もしご興味を持たれたら、両方を併読していただけると幸いである。
2.日本の発展および近代化について考える
それではここで、日本の発展や近代化についてみていこう。
日本は、国際的な脅威に晒されるなかで、独立性を維持し生き残っていくため、明治維新以降のプロセスのなかで、日本の発展や近代化のモデルを形成させた。そのモデルは、次のようなポイントがあった。
・連邦国家で地方分権的であった江戸時代のシステムの否定。
・画一性、同一性、多様性の否定。これらの点は、下のこととも連動する。
・行政中心(天皇制との関係)の政府。議会は付け足し。薩長土肥の藩閥中心の行政府。
1990年代の政治改革で、「政治主導」という名のわずかのスパイスの効いた相変わらずの行政中心の「歪んだ政策形成」。相変わらずの行政(中央政府)にしか政策の人材や知見がない。日本の憲政史的にいうと、行政の後に付け足し・接ぎ木としてつくられてきた国会(立法・議会)・政治という現実。
・中央集権。
・セクショナリズム(縦割り主義)や仲間であること自体を重視する伝統的な傾向が強い。
・他方、中心が存在しない(明治期から1922年頃までは元勲などのジェネラリスト的リーダーが存在、それ以降はスペシャリストしかいず、全体感・歴史観のある人材が欠如)。組織・システムが中心で、そこでは個々人は重要ではないので、その結果誰も責任をとらない。
・東大(帝大、官学。一時陸士、陸大、海大)中心の人財育成、東大を中心とした大学教育・研究体系、政府組織の補完としての東大。
・国力の増強(富国強兵&殖産興業)。
・第二次世界大戦の前後でその実態は大きく変わらず約150年間継続の発展モデル。
同大戦後の高度経済成長のなかで形成された終身雇用、年功序列との連動、会社(中心)主義、系列、財閥グループなども仕組みも、日本社会の画一化等と連動。
・日本は、経済が急成長し、国際社会な影響力を拡大する状況において、「Japan as Number One」、日本型経営、「日本株式会社」論などと煽てられ、ある意味幻想・誤解を持ち、高慢・傲慢となり、学ぶことをしなくなった、あるいは学習することの重要性を忘れた。それに対して、米国や中国は猛烈に日本から学習し、日本を超えていった。
・第二次世界大戦後、「民主主義」(制度や考え方)の導入。しかしながら、民主主義の導入は形式的なものに過ぎなかった。
そして日本は、高い効率性や選択と集中を実現し、ある時期まで成功(明治期~奉天&第二次世界大戦後)する。
→当初は「多様性」「国際性」などあるが、それが「同一化」「画一化」する傾向、そのために「継続性」が強まり、「固定化」しがち。
→結果、中長期的に、同調性、多様性の欠如、イノベーションが起きにくく、変化し難く、粘着性、保守的傾向、多種多様な人材育成やイノベーションを起きやすくする多様な教育・研究機関が不在。これらのことは、社会・世界の大きくかつ短期間での変化のなか、(代替少なく)リスク向上する。
それらのことから、停滞・低迷する日本の現状が形成されてきているといえる。
3.日本の歴史にみる「多様性」「国際性」
だが日本は、歴史的にみると「多様性」や「国際性」を活かして形成され、実はこれまでもそれらを利活用して、ここまでのし上がってきた!その歴史を、やや端折って説明すると、次のようにいえるのではないかと思う。
(0)日本の形成過程
・日本は、本来さまざまな地域から来た部族および土着である民族党が集まり形成されてきた多民族国家(島国のなかで長い期間を経過して、日本人という一体感も形成してきた)。
(1)遣唐使(飛鳥・奈良・平安時代) 「多様性0」:内的で自律的な対応の必要性。
・外国の知見や外国人材の活用。
その後も、外国人材の活用、江戸時代の連邦国家的対応や出島等による多様性などの維持。
(2)明治維新 「多様性1.0」:危機感から強制(内外からの必要性)。
・地方分権→中央集権、日露戦争の途中で変節、・外国の知見・人材の利活用。
(3)第二次世界大戦後 「多様性2.0」:内外からの強制および必要性。
・疎開などで、地方に分散→人材が東京に集積(高度成長)、80年代終わりごろから変質。
・公職追放やレッドパージ。人材の入れ替え、組織の変化→多様性?
・GHQなどもある意味で外国人材や外国の知見(?)の強制INPUT。
(4)現在とこれから 「多様性3.0」:内的で自律的な対応の必要性。
国際的で多様性に富んだOISTの存在およびその知見・経験の日本での活用、女性の社会進出、長期滞在外国人の増加など。この方向性を的確かつ適切に推進できれば、日本はその経済や社会を再起動(リブート)できるのではないかと考えられる。
上記の日本の近代化・発展過程のうち、明治維新以降のそれについて、図表化したのが、次の「図表1:日本の盛衰の歴史の比較(明治維新以降の近代化)」および「図表2:日本の盛衰の歴史の比較(明治維新以降の近代化)(イメージ)」である。
詳細は本記事では割愛するが、図表1および図表2からもわかるように、日本は、当初の時期は高い「多様性」等を活かして、社会的危機などを乗り越えると共に、イノベーションや社会変革を起こしていく。他方その過程で、ルール化やルーチン化等(画一化等)が行われ、その両方(「多様性」と「画一化」などの対極な要素)が有効に機能する時期(成長期)に、社会発展の「絶頂」を迎えるのである。そしてその後、「画一性」が「多様性」を凌駕していくと共に、社会における発展は低迷化、停滞していく(下降停滞期)のである。
また同図表からも、「成長期」と「下降停滞期」は、共に30年超から40年超の期間だといえる。
4.これまで論じたことからわかる、今後の日本の進むべき方向性
これらのことから、次のことがいえるであろう。
・現在厳しい状況や立ち位置にある日本も、1980、90年代以降急速に失われてきた日本における「多様性」や「国際性」の要素を大きく取り入れることで、「再起動」できるのではないか。
・日本も、非常にゆっくりではあるが、それらの要素を組織や社会に取り込む方向に向かっている。他方で、現状を考えると、それらの要素の導入のスピードをかなり上昇させないと、国際社会のなかにおける日本のビハインドを脱却できないだろう。
・日本がその要素を取り入れて、変化させても、30年から40年程度経つと、再びその固定化・画一化が起こりうるので、その時期以前から、その時までの「多様性」や「国際性」を超えた、新たな方向性や可能性も見出していくことが必要だろう。
このように考えた時に、拙著にも書かせていただいているように、OISTは、日本の「多様性」や「国際性」におけるさまざまかつ多くの経験や知見をすでに有している。日本は、それらを有効に活かしていくべきだろう。
ユニークで魅力ある日本。まだまだやれると確信している。