三遊亭円楽の落語高座はその軽やかさで惹きつけられた 忘れられない二つの演目
軽く小ぶりなネタの印象が強い円楽
六代目三遊亭円楽の落語ネタは、軽く小ぶりなものが印象に残っている。
師匠の五代目三遊亭円楽は大きなネタを好んで掛けていたから、ずいぶん違う。
五代目の円楽は長らく『笑点』の司会をやっていた顔の長い円楽である。顔の長い円楽、ときに馬づらの円楽と(口が悪くて申し訳ないけど)勝手に呼んでいる。
となると、六代目三遊亭円楽は楽太郎の時代が長かったから「楽太郎の円楽」と呼ぶか、もしくは「腹黒の円楽」と呼ぶのがいいだろうか。
本人のキャラは、腹黒とは正反対だったからこそ、そういう通り名が残ったほうが本人が喜んで笑っちゃうんじゃないかと、ちょっと想像してしまう。
いろんな落語会のプロデュースをしていた
六代円楽は、なんだかいつも忙しそうだなというイメージがある。
当人の印象ではなく、いろんな落語会のスケジュールを見ていると、定期的に円楽プロデュースの会が開かれていて、それも大規模なものがけっこうあって、精力的に落語界を動かそうとしているのだなあ、という印象が強いからだ。
もうひとつ、この人の高座では短い噺が印象深いからかもしれない。
いろいろ忙しく立ち働き、落語高座をあたためるいとまもない、というふうな勝手な連想である。
この人の落語の良さは軽妙さにあった。
師匠の五代円楽は、大きなネタをよく掛けて薙ぎ倒すように客を巻き込んでいったのに比べて、この人(楽太郎の円楽)にはそういう大仰さがなかった。
ひょこっと出てきて、軽妙な噺でざっと客をつかんで、わっと沸かせて、すっと去っていくという風情であった。
やりゃあがったな、と爽快である。
定席の寄席には39年出られなかった
本来は、大勢の芸人が出る定席の(つまり毎日やってる)寄席がもっとも似合うタイプだったはずなのだが、キャリアのほとんどが「円楽一門」に所属していて、寄席に出られない立場にあった。しかたのない部分だろう。
晩年の5年ほど落語芸術協会に加わってからの出演はあったが、それ以前40年近くは定席寄席には出演できていない。
私が聞いたのは、円楽一門による地味な(意味不明のでかい柱が中央に踏ん張っている)両国の寄席や、笑点メンバーとの抱き合わせの大きなホールの落語会などである。
楽太郎時代の文京シビックホールでの独演会にも何度か通ったが、客を静かにしんみりさせるタイプの落語家ではない。
沸かせて、楽しんでいただけましたか、とにこやかに送り出す咄家であった。
もっとも印象に残っている一品
もっとも印象に残っているのは、小噺ともいえない、いわば逃げ噺である「ウクレレサンド」である。
仕草で見せる小噺であって筋も何もない。
ささっとやって、ささっと受けるネタで、こういうのでとても短くまとめて、あとの人よろしく、とほいっと消えるのが(そういうのを「逃げ噺」という)、六代円楽には合っていた。
短いが、見てた人には深い印象を残す。
そのへんがうまい。
大ネタをやると若かった
もちろん大きなネタもいくつも見ている。
「唐茄子屋政談」「ねずみ」「浜野矩随」「明烏」など、しっかり聞かせるネタも聞いている。この人の場合、大ネタだとどうしても演じ方が若くなるんだなあと、おもっていた。
『笑点』で長年ずっと若手というポジションだったということも大きいだろう、見た目よりもずっと若手に見えていた。
「二ツ目から上がって間もないんですけど」という気配をどこかに残してるように見えて、それは、私がそう感じていたばかりなのだが、初期記憶のまま長く見続けていただけかもしれない。
二ツ目昇進の翌年から『笑点』レギュラー
『笑点』へのレギュラー出演が始まったのは二ツ目に昇進した翌年のことである。
いまではまず考えられない。若すぎる。
修業時代を終えて一年後にテレビ番組のレギュラーとなって、そのまま勤め続けた。
なるのは運もあるが、続けるのは才能である。
タレント的才能にとても長けていた。座持ちのいい人という気配が横溢としていた。
売れない苦闘時代はあまりなかったのだろう。その点では稀有な人である。
大きいネタ(いわゆる人情噺)を演じるときに、ベテランの落語家でも「若いときに受けなかった苦闘の跡」の匂いともいうべきものがどこか残っているのだけれど、楽太郎の円楽は、それを感じさせなかった。
若いときからテレビで顔を知られている人の落語は、こういう気配なのかとおもって毎度聞いていた。
演じ方が若いのだ。
絶品だったのは『藪入り』
なかでは『藪入り』、これは絶品だった。
私の中では『藪入り』といえば、六代円楽である。
『藪入り』は親子の人情ネタで、古典ではあるが微妙なバランス感覚の要る噺で、ヘタすると、ただのベタベタな雰囲気の一品になってしまう。
そこをきれいに演じて納得させるのは、円楽が抜群だった。
噺のなかの時の流れを感じさせるのが、じつにうまかった。
父と息子の落語がニンに合っていた
これは親子の人情噺、それも「父と子」の噺である。
ちょっとぶっきらぼうで慌て者でおせっかいで無器用だけど、愛情あふれる父と、まだまだガキだとおもっていたけど丁稚奉公にいって成長した息子とのやりとりを描く一篇で、おそらく六代円楽の「ニンに合っていた」のであろう。
つまり円楽本人のもともとのキャラクターと落語の雰囲気がとても合っていた、ということだ。
世話焼いてペロリと舌を出して煙に巻く
六代円楽本人が、たぶん、そういう人だったのだ。
親分肌というよりは世話焼きでいわば兄貴肌、それでいてベタベタするわけではなく、世話焼いたあとにペロリと舌を出して煙に巻いて去っていきそうなところ、そういう部分である。でも世話だけはしっかり焼いている。
そういうことをふつうにこなしている姿が、この噺に滲み出ていた。
父が息子に向けるような心持ちを、ふつうにいつもまわりに抱いていた、ということだろうか。
雑誌で鼎談したことがあった
雑誌の鼎談で、いちど、ゆっくり話したことがある。
桂歌丸追悼の記事で、歌丸さんについて語り、落語について語っていた。
そのとき、いくつか軽い約束をした気がするのだが、コロナの影響もあって果たせず、そしてそれももう、ないことになってしまった。
そのことをおもうと、胸が突かれる。