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科学VS宗教、食べることVS食べないこと、家族VS疑似家族…。対立関係で読む、映画『聖なる証』

木村浩嗣在スペイン・ジャーナリスト
アイルランドの食べない少女を監視する主人公は、イギリス出身でわしわし食べる

映画『聖なる証』には、いくつもの対立関係が描かれている。

科学VS宗教、拘束VS解放、男VS女、食べることVS食べないこと、家族VS疑似家族、アイルランドVSイギリス……。

映画を見終わった時に、この雑多なVSに決着がついていなければならないのだが、いくつかの勝敗と決着の仕方には、やや疑問が残った。

もっとも、これだけのテーマを盛り込んで、一応の落としどころを作ってくれただけで満足すべきかもしれない。

ネタバレはしたくない。面白かったかつまらなかったか、納得したか納得しなかったかはみなさんの感想を待ちたい。

※この稿にはネタバレはありませんが、見ていないとわからない記述が多いので、見てから読むことをおススメします。

以下、それぞれのVSの構造を紹介したい。

1:「食べることVS食べないこと」

まずわかりやすい方から、「食べることVS食べないこと」。

わしわし食べる主人公と、食べることを拒否した少女が出てくる。勝敗は簡単だ。食べないことよりも食べた方が良いに決まっている!とは即決できない。時と場合による。

19世紀、大飢饉のあったアイルランドが舞台だと、食べないことが美徳とされてもおかしくない。少女が「奇跡」と崇められたのは、食べないからだった。

当時の“持続可能な体質”とは、あまり食べないでも生きていけることであり、主人公のようによく食べる人は厄介者扱いされた可能性がある。ちょっと前の日本でも、小食が女性のたしなみのように言われていたではないか。

2:「男VS女」

主役も脇役も女で、そもそも男の重要性が低い。唯一、重要な役を与えられている男は、主人公のサポート役だ。

象徴的なのはこの二人が関係を持った後のセリフである。女は男に「ありがとう」と言う。これは“私の欲求を満たしてくれて感謝している”という意味で、上から目線、サービスを受けている側、主導権を握っている者側からの言い方。

愛し合っている対等な関係では、普通こんなことを言わない(言ったら怒られる)

その他の男たちはまあ酷い役だ。キーワードにすると、無口、無関心、無責任、不在、野卑、権威、虐待……とこんな感じ。

主人公の食欲旺盛ぶり、冷静な観察眼と論理性、リーダーシップ、行動力からすると、この作品を“女性による、女性(+酷い男性)から、女性を解放する物語”というふうに解釈できる。つまり、フェミニズム色が濃い。

3:「科学VS宗教」

食べないで生きていくのは不可能、と断言するのが「科学」。不可能という前提から、もし生きているとすれば何か仕掛けがあるはずだ、というふうに推測していく。そうしてトリックを見破るために、あれこれを疑い、いろいろな措置をしつつ包囲網を狭めていき、最後に科学的な必然としてトリックへ行き着く

ちなみに、食べないで生きていけるのは“光合成人間が誕生したから”と結論付けるのは「疑似科学」である。

「宗教」というのはこの作品の場合はキリスト教。信心深い者たちは、食べないで生きていけるのは「奇跡」で、それができるのは「神に選ばれた者だから」と解釈する。

こう書くと、“そんなわけがない!”と言いたくなるが、ここにはちゃんとした背景がある。

大飢饉の後である。餓死者も出た。人々は希望を失っている。そのタイミングで、飢饉に負けない、食べなくてもいい少女が現れる。ならば、神の使いと信じたくなる気持ち、すがりつきたくなる気持ちはよくわかる。

大飢饉が神の怒りであるなら、少女の出現は神のおぼしめしであって何ら不思議ではない。

サン・セバスティアン映画祭を訪れた少女役のキラ・ロード・カシディ。C:Pablo Gómez
サン・セバスティアン映画祭を訪れた少女役のキラ・ロード・カシディ。C:Pablo Gómez

4:「拘束VS解放」

籠の中の鳥と、籠の外の鳥。

少女や主人公を拘束するのは、第一に「家族という血の絆」である。母親の言っていることと兄のしていることは正しくて、自分のためだ、と思い込むことで、鳥は家族という「籠」に入る。

第二に「信心」である。裏切ると地獄に落ちるとか、死ぬと天国に行けるという教えにがんじがらめになって身動きできない。

第三に「トラウマ」である。過去の悲しい出来事は自分のせいだと責め続ける。罪の意識が、前を向くこと、今を生きること、未来の希望を持つことの邪魔をする。

これらの拘束から、彼女たちがどう解放されて自由になるかが、この作品の最大の見もの。特に、信心深い少女を解放するために主人公が使った手法が面白い。

5:「家族VS疑似家族」

“疑似家族って全然悪くないですよ”というのが是枝裕和監督作品に一貫するメッセージだったりする。逆から言えば、血の繋がりってそんなに大事ですかってことだ。

ただし、この作品の疑似家族には疑問がある。血の繋がった方の家族が酷い、これは疑いの余地がない。だが、配偶者選びは行き当たりばったりのように見えるし、相手の方にもあまり愛を感じない。こんな両親の下で娘は幸せになれるのか? そもそもその娘も「血の繋がった子の代役」に過ぎないのではないのか?

監督のセバスティアン・レイロ(左)。C:Jorge Fuembuena
監督のセバスティアン・レイロ(左)。C:Jorge Fuembuena

6:「アイルランド対イギリス」

最後に、両国の描かれ方を。

舞台は19世紀のイギリス併合時代のアイルランドである。だから、というわけではないのだろうが、対照的な描かれ方をしている。

貧しく、古い因習が残るアイルランド。黒っぽい服を着た人々は迷信深く懐疑的で、宗教や家族、男性による抑圧がある。家は暗く寒く、田畑は荒れ果てており、食べるものにも事欠く。主な産業は農業で、移動手段は馬車である。

対照的に、船に乗ってイギリスから来た主人公たちはモダンで、科学的で、論理的で、身なりが良く、栄養状態も良い。働く女性も多そうで、主人公は看護婦である。マスメディアも発達しており、ロンドンからは新聞の特派員も派遣されて来る。

以上、おススメです。ぜひ見てください。

※写真提供はサン・セバスティアン映画祭

在スペイン・ジャーナリスト

編集者、コピーライターを経て94年からスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟のコーチライセンスを取得し少年チームを指導。2006年に帰国し『footballista フットボリスタ』編集長に就任。08年からスペイン・セビージャに拠点を移し特派員兼編集長に。15年7月編集長を辞しスペインサッカーを追いつつ、セビージャ市王者となった少年チームを率いる。サラマンカ大学映像コミュニケーション学部に聴講生として5年間在籍。趣味は映画(スペイン映画数百本鑑賞済み)、踊り(セビジャーナス)、おしゃべり、料理を通して人と深くつき合うこと。スペインのシッチェス映画祭とサン・セバスティアン映画祭を毎年取材

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