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北朝鮮で路上生活、強制送還、処刑の危機から一転、イギリス議員候補に奇跡の浮上――知られざる逆転の人生

西岡省二ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長
最高人民会議(国会)の投票所の様子=北朝鮮公式ウェブサイトより筆者キャプチャー

 北朝鮮で路上生活を送り、脱北、強制送還、脱北を経験した男性が、その後人生を好転させ、来月実施の英地方選挙の候補に選ばれた。北朝鮮と英国の国情を対比させ、「民主主義国での1票は、我々の声であり、市民権の権利である」と、忘れ去られがちな投票行動の意味を、実感を持って伝えている。

◇両親が逃げ「敵対階層」扱い

 男性は北朝鮮出身のティモシー・チョ(Timothy Cho)氏(33)。米政府系放送ボイス・オブ・アメリカ(VOA)や英サイト「クリスチャン・トゥデイ」、英大衆紙「ザ・サン」などに掲載されたチョ氏に関する記事をまとめると、経歴は次のようになる。

 北朝鮮で生まれ、8歳のころ、両親が中国に脱出して、特別監視と差別的待遇の対象となる「敵対階層」とみなされるようになった。時は1990年代半ば、大量の餓死者を出した「苦難の行軍」の真っただ中。路上生活に追い込まれ、大勢の飢餓を目の当たりにした。

 当時のことを、チョ氏は「成長するには暗い場所だった。それでも金日成(キム・イルソン)主席や金正日(キム・ジョンイル)総書記らファミリーは神のような存在で、日々ファミリーのことを考え、頭を下げ、話さねばならなかった」と振り返る。

 そして2004年には本人も脱北し、中国に逃れた。17歳だった。

「目が覚めた。光があふれ、食べ物が豊富だった。若者のファッションも斬新だった。それまで見たことのないものばかりだった」

 キリスト教関係者の家にかくまわれた。だが、当時のチョ氏はキリスト教への抵抗感があり、そこを飛び出した。モンゴル行きを試みたが、国境付近で中国の兵士に捕らえられた。

◇上海の米国国際学校に駆け込み

 北朝鮮に強制送還され、監獄に入れられた。「残虐行為、恐ろしい拷問、非人間的な行為を目の当たりにした」。隙をついて抜け出し、ブローカーの手引きを受けて再び脱北した。

 当時、中国にある外交公館への脱北者の駆け込みが相次いでいた。チョ氏も同年9月27日、他の脱北者8人とともに上海の米国国際学校に駆け込み、職員に「支援を必要とする脱北者」と書いたメモを見せた。だが、学校側は「自分たちは米国の外交公館とは関係のない施設である」との立場から支援を拒否し、9人を中国公安当局に引き渡した。拘置所に入れられたチョ氏は「北朝鮮の政治犯収容所で余生を過ごすか、公開処刑されるか、どちらかだ。当局の手で死を迎えるより、睡眠薬で自殺しよう」と思い詰めた。

 ところがこのころ、国際的な非政府組織(NGO)メンバーとみられる男性2人がチョ氏を訪ねた。脱北者送還に反対して中国に圧力をかける署名活動が繰り広げられていることを知った。その時の経緯は聞かされていないが、チョ氏の送還先は北朝鮮ではなく、なぜかフィリピンに決まった。

 フィリピン経由で韓国入りを果たした。そこで父親との再会を果たした。2008年には英国で難民認定を受けて亡命した。英語を学び、高校卒業検定試験を経て、リバプール大学大学院で国際安全保障の修士号を取った。

 学生時代にボランティアとして、英議会「北朝鮮問題に関する超党派議員の会(APPG-NK)」議長のブルース下院議員(保守党)の選挙運動を手伝って政治を志すようになった。現在、APPG-NKの調査官として活動している。

◇「北朝鮮の人々を『民主主義の構成員』にする」

 チョ氏はVOAの取材に、北朝鮮の選挙事情についてこう答えている。

「鮮明に覚えているのは、両親が北朝鮮を離れる前の1990年代半ばの選挙です。2人とも胸に肖像徽章をつけて、おしゃれをしていました。私もきれいな格好をして両親について行きました。投票後、みんなでレストランに行き、おいしい物を食べました。それは特別な日でした。

 ただ、選挙はといえば、投票用紙には候補者1人しか書かれておらず、キム・ファミリー(のため)に1票を投じる決まりになっていました。投票所では男2人が監視し、投票しなければ、家族全員が『再教育』のために拘束されるか、収容所に連れて行かれるということでした」

 英国に来て、北朝鮮との違いを全身で感じ取り、「選挙運動に関わるなかで『これが民主主義』『これが市民社会』だと知らされた」という。

 チョ氏は今回、英中部の主要都市マンチェスターにあるテームサイドの議員選挙(来月6日実施)で保守党候補となった。

「真の民主主義国家での我々の1票は、単なる小さな紙切れではありません。我々の民主的な声と市民権の権利を表しており、それをどう使うかによって、旅行の仕方、仕事や賃金、光熱費、さらには朝のコーヒーまで、我々の日常生活が形成されるのです」

 仮に、もし北朝鮮で今、民主的な投票が実現すれば……。「ある人は、自由な経済活動を実現してくれる候補に1票を入れるだろう」「農民なら、土地を民営化して、自分たちの作物を栽培できるようにしてくれる候補を選ぶ」「隠れキリシタンは、思想と表現の自由に1票を投じるだろう」と思い描いている。

 チョ氏はこんなメッセージも発している。「夢と勇気、希望を持って、北朝鮮の人々を『民主主義の構成員』にすることが、私の使命だと考える」。現状では実現の可能性は極めて低い目標だが、自身に起きた「人生の好転」が祖国にも訪れることを信じ、遠く欧州から働きかけを続ける。

ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長

大阪市出身。毎日新聞入社後、大阪社会部、政治部、中国総局長などを経て、外信部デスクを最後に2020年独立。大阪社会部時代には府警捜査4課担当として暴力団や総会屋を取材。計9年の北京勤務時には北朝鮮関連の独自報道を手掛ける一方、中国政治・社会のトピックを現場で取材した。「音楽」という切り口で北朝鮮の独裁体制に迫った著書「『音楽狂』の国 将軍様とそのミュージシャンたち」は小学館ノンフィクション大賞最終候補作。

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