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明治維新から77年目の敗戦と敗戦から77年目の惨状

田中良紹ジャーナリスト

フーテン老人世直し録(662)

葉月某日

 今年の夏は1945年の敗戦から77年目に当たる。敗戦の77年前は日本が封建体制を脱して近代化を始めた明治維新の1868年だ。近代日本は富国強兵策によって西欧に近づき、世界の五大国の一角に食い込んだが、77年後にそのすべてを失った。

 戦後の日本は東西冷戦構造を巧みに利用し、焦土から米国に次ぐ経済大国に上り詰めた。しかし1989年の冷戦の崩壊と共に「失われた時代」を迎え、坂道を転がるように転落の一途をたどって77年後の現在に至っている。

 敗戦までの77年間と敗戦からの77年間は、いずれも前半が上り坂、後半が下り坂で奇妙な一致をみる。77年目の夏に当たって、何が上り坂を可能にし、何が下り坂の原因となったのかを考えてみる。

 日本が明治維新によって近代化に乗り出したのは、欧州列強がアジア、アフリカを植民地支配し、資本主義経済を確立する帝国主義の時代である。その欧州列強同士が戦い、プロシア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国の崩壊をもたらしたのが1914年に始まる第一次世界大戦だった。

 第一次世界大戦で戦勝国の側にいた日本は、明治維新から52年後の1920年に世界の五大国の一つとして国際連盟の常任理事国になった。ここまでが戦前日本の上り坂だったと思う。それを可能にしたのは、江戸時代に作られた経済の基礎と明治政府の富国強兵策である。

 江戸時代には参勤交代に伴う道路網の整備と、年貢米を大阪や江戸に送る海路が開拓され、江戸は産業革命前のロンドンより人口の多い大都市だった。また寺子屋が1万を超え、読み書き算盤を教えて庶民の教育水準も高かった。

 明治政府は廃藩置県で中央集権体制を作り、義務教育制度を導入して小学校就学率を100%にする。そして富国強兵のスローガンを掲げ、官営の紡績工場や軍需工場を作り、業績が上がると民間に払い下げ、産業革命の成果を受け入れる土壌を確立する。

 払い下げを受けた民間業者は特権的地位を得て「財閥」となり、ここに一部の富裕層と多くの無産階級からなる現在の新自由主義と似た社会が生まれる。富裕層は株主となって企業に配当益を要求し、経営者が利益を出せなければ首にする。労働者も簡単に首を切られ、労働力の流動化は激しかった。

 富国強兵の結果、日本は日清・日露の両大戦に勝利し、世界に注目される軍事強国になった。米国のセオドア・ルーズベルト大統領は、恐れていたロシア帝国のバルチック艦隊を日本が撃破したことに喜び、直ちに講和に乗り出して日本を有利にするが、しかし直後には日本の軍事力を警戒、日本攻略の軍事作戦「オレンジ計画」を作成させて演習も行った。

 国際連盟の常任理事国となった日本は明治以来の夢を果たすが、一方で軍部は総力戦となった第一次大戦を分析し、鉄の生産量が戦争の勝敗を決するという結論を得る。資源なき日本は正規戦では勝てず、奇襲戦法で緒戦に勝利し、すぐ講和に持ち込む以外に戦争の方法はないことを知った。

 第一次大戦直後の1923年に関東大震災が起き、日本は未曽有の被害を受けた。下り坂が始まる。さらに29年に米国発の大恐慌が世界の資本主義を直撃し、日本でも昭和恐慌が格差社会を襲う。格差の拡大が社会の不安を招き、財閥や政治家に対するテロ事件が頻発した。

 そうした中で日本政府は経済統制を強める。日中戦争が始まったこともあり、国家が経済の隅々まで管理する仕組みが作られた。それは新自由主義的仕組みを根本から覆す。企業は株式市場から資金を得るのではなく、銀行から金を借りる間接金融が奨励され、国民には郵便局や銀行に金を預ける預貯金が奨励された。

 銀行が企業のメインバンクになることで、企業は銀行から経営を指導される。その銀行を指導するのが大蔵省で、政府の方針は大蔵省を通じ銀行を経て企業に行き渡る。富裕層の利益より、勤労大衆に年功序列賃金や終身雇用制によって生活の安定と安心を与え、また社会保障制度も充実された。

 これらの改革を行ったのは「革新官僚」と呼ばれた若手官僚たちで、その中には戦後自民党の政治家となる岸信介や椎名悦三郎、また社会党の政治家となる和田博雄や勝間田清一らがいた。彼らは大恐慌の影響を受けなかったソ連の計画経済を下敷きに日本経済のシステムを作った。これが後に戦後の高度経済成長を生む経済モデルになる。

 一方で正規戦では勝てないことを知った軍部は、日本政府が国際連盟を脱退してドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶと、英米との戦争に乗り出さざるを得なくなる。しかし最悪だったのはそれが真珠湾奇襲攻撃から始まったことだ。

 そもそも日米戦争のシミュレーションは1930年代から様々に行われ、日米戦争は日本軍の真珠湾奇襲攻撃から始まると書かれた本が米国では出版されていた。山本五十六連合艦隊司令長官が発案するより前の話だ。米国はそれを想定した演習も行っていた。

 そしてフランクリン・ルーズベルト大統領には、様々なルートから日本の連合艦隊が真珠湾を目標にしている情報も寄せられていた。しかしルーズベルトが攻撃を知っていて何もしなかったとすれば米国民を欺いたことになる。従ってそれを裏付ける公的資料はない。あったとしても公開されることはありえない。

 ただルーズベルトにはイギリスを助けて参戦したいのに、米国民の8割以上が戦争を望まず、また1940年の大統領選挙で選挙に勝つため「米国の若者を戦争に行かせない」と公約した事情があった。そのため裏で参戦の機会を狙っていた。

 ルーズベルトは日本が先に攻撃を仕掛けるよう挑発を行う。それが米国民を戦争に立ち上がらせる唯一の方法だからだ。従って真珠湾奇襲攻撃が「汚い日本人の騙し討ち」になったことはルーズベルトの思う壺で、ルーズベルトは国民に反対されずに日本とドイツに宣戦布告することができた。

 山本五十六は「奇襲攻撃で米国の戦意をくじき、講和に持ち込むことができる」と主張したが、結果はまったく逆になった。戦意をくじくどころか米国民を戦争に立ち上がらせる一方、日本では大勝利と報道されて国民は講和ではなく戦争の継続を求めた。

 そう考えれば日米戦争は、日本が真珠湾を奇襲攻撃した時点ですでに勝敗は決していた。それなのに日本人は山本五十六を英雄視し、山本が戦死すると国葬が執り行われた。そして今なお山本五十六を主人公にした映画が作り続けられている。日本人の歴史感覚とは不思議なものだと思う。

 ともかく日米戦争で米国は「オレンジ計画」の作戦通りに太平洋を進軍し、1945年8月6日と9日に開発されたばかりの核爆弾2発を広島と長崎に投下した。日本政府は仲介を頼っていたソ連が8月9日に中立条約を破棄して参戦すると、ようやくポツダム宣言を受諾して敗戦を決めた。焦土と化した日本はゼロからの出発となった。

 敗戦後の日本の77年は、戦勝国となった米国との相克の歴史である。そしてそれは前半の冷戦時代と後半のポスト冷戦の時代に分けられる。前半の日本は冷戦構造を巧みに利用して上り坂を駆けあがり、後半は米国に一方的に押しまくられて下り坂を転がり落ちた。

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ジャーナリスト

1969年TBS入社。ドキュメンタリー・ディレクターや放送記者としてロッキード事件、田中角栄、日米摩擦などを取材。90年 米国の政治専門テレビC-SPANの配給権を取得。日本に米議会情報を紹介しながら国会の映像公開を提案。98年CS放送で「国会TV」を開局。07年退職し現在はブログ執筆と政治塾を主宰■オンライン「田中塾」の次回日時:11月24日(日)午後3時から4時半まで。パソコンかスマホでご覧いただけます。世界と日本の政治の動きを講義し、皆様からの質問を受け付けます。参加ご希望の方は https://bit.ly/2WUhRgg までお申し込みください。

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