秋になると、寂しい気持ちになるのは何故?
こんにちは。
精神医学と性格心理学に詳しい
心理カウンセラー(公認心理師)の竹内成彦です。
今日のテーマは、「秋になると、寂しい気持ちになるのは何故?」です。
ある人から聞きました。
「寂しい」という気持ちというのは、「ある筈のものがない」と思ったときに感じる感情だそうです。
愛する人と別れて寂しいと思う、3年間通った学校を卒業して寂しいと思う、クリスマスの夜にひとりで過ごして寂しいと思う…等々。
言われてみれば、「確かにそうかも…」「なるほど!」です。
あなたは、秋になると「寂しい」という気持ちになる人ですか?
それとも、ならない人ですか?
また秋に、「寂しい」という気持ちになったことはありますか?
それとも、なったことなどないですか?
私(竹内成彦)は、小学校6年生の秋に初めて、夕日を見つめて、「寂しい」という感情を覚えました。「今日という日が終わってしまう。そして、今日という日は、もう2度と帰って来ない。そんな、1度限りの今日という日なのに、明日になってしまえば僕は、このかけがえのない今日という日を忘れ去ってしまうんだろうなあ…」と思ったのです。
その日からです。私が日記を書き始めたのは…。
それ以来、私は、50年以上、ほぼ毎日、日記を書き続けています。
「秋 特有の、寂しい気持ちにどう対処したらいいのか?」につきましては、【季節性うつ(冬季うつ)】とは何か? に書きました。宜しければ、ぜひコチラをお読みください。
先ほど私は、「寂しい」という気持ちは、「ある筈のものがない」と思ったときに感じる感情だ…と言いました。じゃあ、その「ある筈のものとは何か?」ということになるのですが、ここからは私の創作です。
この創作は、「誰かから聞いたのか?」「何かの本で読んだのか?」「はたまた自分でイチから考えたのか?」、今となっては定かではありませんが、私はもう、この考えを30年近く持ち続けています。
ある筈のものとは、ズバリ「獲物」です。
もう日が暮れようとしているのに、手に獲物を持っていない、ある筈の獲物を手にしていない、だから「寂しい」と感じる…というのが私の考えです。
秋の日は短いです。すぐに暗くなってしまいます。
「早く獲物をとって、妻が待っている、自宅である洞穴に帰らなければならない。にも関わらず、俺は獲物を手にできていない。このままでは、おめおめ家に帰ることなど出来ない」そう私たちの祖先であるホモサピエンスは、考えたのではないか? と私は思う次第です。
獲物を手に出来ていない、私たちの祖先は、沈みゆく夕日を見て、「どのくらい寂しい気持ちになったのだろうか?」と考えると、私は胸が締め付けられるような気持ちになります。
寂しいのは、男だけではありません。女もそうです。
「もうじき日が暮れる。けれど、夫は帰って来ない。夫は、無事に帰って来るだろうか? 獲物を持って帰って来るだろうか? 猛獣に襲われたりはしてないだろうか? 怪我でもしてないだろうか? 道に迷ってはいないだろうか?」
いる筈の夫がいないという事実が、妻の心を寂しくさせるのだと思います。
夫の帰りを待ちわびている、私たちの祖先は、沈みゆく夕日を見て、「どのくらい寂しい気持ちになっただろうか?」と考えると、私は胸が締め付けられるような気持ちになります。
私たちの脳内には、遠い遠い祖先であるホモサピエンスの記憶が、DNAの中に刻み込まれている…と私は思う次第です。
なーんて壮大なことを、壮大なロマンに浸っていると、私は自分の寂しさが妙に癒されます。「私とホモサピエンスは、時を超えてつながっているんだ」と…。
あなたは、私のこの話を聞いてどう思いましたか?
「くだらない」って思いましたか? それとも「なるほど」と思いましたか?
そうそう、【季節性うつ(冬季うつ)】とは何か? には書きませんでしたが、いろんなことを試してみても、寂しさが埋まらないようだったら、いっそのこと寂しさに浸ったほうがいいです。酒やギャンブルや性や、食い物や買い物に走るより、よっぽど健全だと思います。
私は、秋になると、よく定光寺に行きます。秋の平日の定光寺は、とっても寂しいです。誰もいません。お寺も川も橋も寂しそうです。そんな寂しさに包まれていると、「みんな寂しいんだなあ。寂しいのは私だけじゃないんだ」と、妙にホッとした気持ちになれます。
ぜひ、あなたも寂しさに浸ってみてください。そうすれば案外、寂しさは消えるかもしれませんよ。
今日も最後までお読みくださって、どうもありがとうございます。
心から感謝申し上げます。
この記事を書いた人は、心理カウンセラー(公認心理師)の竹内成彦です。