『グランメゾン東京』で見せた“木村拓哉の天才的閃き”の魅力
木村拓哉の『グランメゾン東京』は年末12月29日が最終回だった。
かなり珍しい。連続ドラマの最終話が年末に放送されることはめったにない。
その二週前に終わっているドラマが多いなか、日曜9時のこのドラマだけが年末ぎりぎりに放送された。
連続ドラマが流れてない時期というのは、なんだか寂しいので、年の瀬までドラマを引っ張ってくれるのは何だか楽しかった。
いくつか、おさらい番組も放送されていた。
最終話前までを短くまとめて、見逃してる人も楽しめるように作られた番組だ。そういうダイジェスト版を3回くらい見た。
ドラマ『グランメゾン東京』が持っていた物語としての底力
ただ、ダイジェスト版を見ても、さほど盛り上がらなかった。
1話から10話までしっかり見ているからだろう、知ってる話を短く見てもあまり新鮮味を感じない。
でも、どうやらそれだけではなさそうだ。
ダイジェスト版を見たあとに、録画した本編を1話からきっちり見直してみたが、おもしろい。盛り上がる。見ていて、おー、と声を上げてしまう。そういう「アゲてくれる」ドラマなのだ。
ダイジェスト版で「あがらない」のは、つまりストーリーで盛り上がってるわけではないからだろう。
『グランメゾン東京』はTBS日曜9時の、お馴染みの、逆転ものである。
主人公は一度、フランスのレストランで成功したが、事件を起こし、落ちぶれてしまう。その彼がレストラン界の最高の勲章「ミシュラン三つ星」を、東京で目指す物語である。
落ちぶれても諦めない。仲間を集め、捲土重来、ふたたびレストラン界で名を挙げていく。徐々にてっぺんに近づいていく。
そういうドラマだ。
縮めてしまうと「失敗した男が再び盛り返す話」である。がんばってるなあとはおもうが、ダイジェストでは気分が高揚しない。
ドラマの芯はストーリー展開におかれていない。
まあ、だいたい多くのドラマの芯はストーリーには置かれていないんだけどね。たまにストーリー展開のスリリングさで惹きつけるドラマがあるが、そういう物語は、ほぼ間違いなく終わったあとに賛否両論がかまびすしくて(だいたい否定派の声が大きく聞こえてくるし)あまり落ち着いて見ていられない。長年にわたって大量のドラマを見続けていると、あまりストーリーの出来不出来ではドラマを評価しなくなる。
ドラマのおもしろさは,巻き込まれるかどうか、で決まってくる。
ドラマ世界に惹きつけられるか、というのがポイントだ。それはストーリーだけの力ではなく、映像とか役者とか音とか間合いとか、そういういろんなものが集まった世界そのものの力だ。
『グランメゾン東京』は、最高のフレンチレストランを作ろうと集まってくる人々を描いていた。いろんな猛者がぽつりぽつりと集まってくる。だいたい1話に1人くらいのペースで加わってきた。
そこが面白い。どんどん巻き込まれていった。
ダイジェスト版では、なかなかその熱まで、すくいあげられない。
物語というのは、細部に意味があるので、ダイジェストでは大事な部分が伝わらない。小説も同じである。ダイジェストで小説を読むのは、かなり無意味なので、気を付けてください。小説を読むこと自体が無駄の一種なので、その無駄を節約しようとすると、ほぼ無意味になっちゃいます。
そもそも物語というのは、どうでもいいようなところや、ダレダレのところ、なんか意味なさそうな風景描写などが、ボディブローのように身体に効いてきて、それが最後にどーんと身体に響く世界を提示してくれてるものなのだ。かなり19世紀的なお楽しみですね。時間がかかる。自分で体験しないと意味がない。
ドラマはその19世紀的感覚を残した媒体なので、丁寧に追わないとあまり楽しくない。ストーリーだけを追うのって、たとえば「そのゲームやらないから、どうなるかだけ教えて」と聞いてるようなもので、あまり意味ないんじゃないかしら、て感じがする。
料理人・木村拓哉が演じてみせた天才的な「閃き」
『グランメゾン東京』は木村拓哉を使って、うまく伝えてくる。
木村拓哉はかっこいい役だ。天才的料理人を演じている。その姿がひたすらかっこいい。
料理を作る姿が、身体に響いてくる。これは木村拓哉の真骨頂だろう。
ドラマ『グランメゾン東京』を見ていると、天才的料理人の才能というのがどういうものか、わかる気がする。
ゴールだけを閃(ひらめ)く力。
それだとおもう。
ほんとうにそうなのかどうかはわからない。物語ではそう見えた。それだけで充分だろう。
「ゴールを見すえた閃き」ではない。到達点だけがすっと閃く感覚である。道筋はわからなくてもいい。あるものとあるものを結びつけたら、まったく新しい場所に行き着くのではないか。そう閃いて、その到達点だけを先に体感してしまう才能だ。
あらゆる研ぎ澄まされたクリエイティブ感覚に共通している。
ゴールだけが先に見えてしまう。
それは自分が知らないところだ。
そして、そこはまだ誰も知らないところだと信じるしかない。ひょっとして先人が行き着いているじゃないか、という不安は常につきまとうが、それに打ち勝つ強さが大事である。
ドラマでもその部分を繰り返し描いていた。
クリティカルで繊細な想像力と、泥臭くゆっくり進める強さ。先端の現場では、つねにそれが求められている。
それを実践する料理人たちを見てると、勇気が出る。元気になれる。
最高峰のフランス料理なんか作ったことはないけど(食べたこともほとんどないけど)、でも見てる者に、最高の料理はこういうものではないか、と想像させる力があった。
映像の力と、木村拓哉の底力だ。
ただ、孤高の天才だけでは、レストランは成功しない。
「稀にみる舌の持ち主」である女料理人を鈴木京香が演じ、天才シェフと組んで一流レストランを生み出していく。
沢村一樹が演じるギャルソンは、主人公の料理の才能を完全に信頼している。かつて『王様のレストラン』というドラマではギャルソンこそがレストランの出来を決めると謳われていたが、そのとおりなのだろう。彼の接客がレストランの質を高める。
いろんな組み合わせやアイデアを出す料理人(及川光博)、仕事が正確で早い料理人(玉森裕太)、俊敏な閃きで見事なデザートを生み出す女性パティシエ(吉谷彩子)、日本のワインにやたら詳しく料理そのものの質を上げたソムリエール(中村アン)、そして、雑誌の編集者であり、またレストラン評価を左右する「美食家」でもある美しい女性(冨永愛)。
彼女ら彼らが“グランメゾン東京”という熱い空間を作り上げていった。
『同期のサクラ』と『グランメゾン東京』の世界感の違い
同クールの『同期のサクラ』というドラマでも、それぞれの登場人物を毎回1人づつフューチャーして、その人を掘り下げてドラマが進んでいった。でも両者はすこし違っている。
『同期のサクラ』では、主人公サクラをいろんな角度から見直すことにより、ヒロインの持つ「普遍性」を探していた。
『グランメゾン東京』では個々の人々が描かれ、それが主人公の欠損部分を補っていき、最後に大きなひとつの力になるところを描いていた。
あっさりいえば『同期のサクラ』は外にどんどん広がるドラマ、『グランメゾン東京』はひとつところに集まるドラマである。
どちらがおもしろいかは人によるだろう。
グランメゾン東京は、ひとつところに集まった熱が、最後に大きな力に達するドラマだった。
最終ラインを通過して、ドラマは終わる。
赤穂浪士四十七人の討ち入りまでを見守るのと同じである。
最後、成功しようと失敗しようと、物語はきちんと終わるのだろう、という予感とともに進んでいく。
『同期のサクラ』は、話が広がるぶん、最後も予見できなかった。パッと切られるように終わるかもしれないし、静かに沈むように終わる可能性もある。そこから再生する終わり方もありえる。そういう気分で見ていた。
そして、提示されたテーマへのわかりやすい答えは示されない。
「忖度せず、自分の信じた道を進む若者はどうなるか」がテーマだった。
相手にされなくなるかもしれないし、何とかなるかもしれない、だめになったあとに誰かに救われるかもしれない。その全方向の可能性を示して、ドラマは終わった。終わったというより、最後、すたすたと歩いて去っていったという感じだった。
『グランメゾン東京』はきちんと終わった。
忠臣蔵と同じである。
ばらばらの連中が集まってきて、少しづつ熱を持ち、その熱に惹かれて新しい人たちが集まって大きな力になる。見てる者も加わった気分になり、高揚する。
その熱は最後はひとつところにぶつけられ、物語は終わる。
すばらしい日本の物語である。
ひょっとしたらストーリーそのものは記憶に残らないかもしれない。しっかり作られた定型ドラマというのはそういうものなのだ。
その代わり、見ていたときの熱を覚えている。
何年経っても『グランメゾン東京』というタイトルを見たとき、ああ、と胸突かれる感覚は残る。そういうドラマだった。リアルタイムで見てるときの幸せだった気分は忘れない。
また、こんなドラマがみたい。
こういうかっこいい木村拓哉を見ていたい。